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是枝裕和【海街diary⠀】

6・27 海街diaryを見た。

私は、大学受験が終わるまで、映画やドラマ、小説や音楽などの芸術にほとんど触れてきていなかった。

要領の悪い学生だったので、できるだけ必要そうなものだけを齧っていたくて、

薄っぺらい自己啓発本やら、何冊も買い込んだ参考書、役に立ちそうでなんとなく聞いていたTED TALK。そういうものばかり。

悪かったとは思っていないが、どれも私の中に「感想」を持たせない、心が動かなそうなものばかりだった。

私は、自分でもわかっていたのだと思う。

芸術に「はまって」しまったら終わりだ、と。一発逆転のチャンス、受験が終わるまではダメだ、と。

運に恵まれ、晴れて大学生になってから、映画と音楽は特に「はまって」いる。

それでもやはり、まだ、みんなが見ているであろう「名作」をかけらも知らないくらいなのだ。

そういうことで、先日、映画『怪物』を見て、是枝監督の映し出す世界に心がゆすられ、思わず帰りがけに是枝監督の著書『映画の生まれる場所で』を読んだ。

この感想はまた別に書こうと思っているものの、彼の世界の捉え方の純粋さと優しさに驚いた。こんなにも温かい感想を書く大人がいるのか、と。

そんな、彼の撮る映画をもっと見たいと思い、映画『海街diary』を見た。

無知な私は今まで、私の育った地元で撮影されたこと知っていたものの、話の内容も、誰が監督かも知らなかった。

まず初めの感想として、カメラの質感なのだろうか、ノスタルジックだ、と思った。
出てくる場所出てくる場所、見知った場所で、
私の実家はもうそこにはないものの、やはりとても懐かしく、
帰る場所もないのに早く帰りたい、と思った。

映し出す色合いもまた美しい。

海が映し出される時、それを必要以上に青くしていなく、実際に見える海の水面の淡い白さを感じた。
だからだろうか、喪服のシーンも必要以上に際立ったコントラストを感じず、日常の地続きに「死」がずっと佇んでいるようで。

「死」も「生」も、この作品では、悲劇的でも悲観的にも捉えていないというか、

壮大な海と歴史のある家の中で、
穏やかな生活と美味しそうな飯(生きること)と
それぞれの仕事や彼女たちを取り囲む人たちから醸し出される「死」

それが緩やかに、優しく四姉妹の関係を包むような、そんな感じだ。

『怪物』も『海街diary』も、見ていて、辛くて涙が出るのではなくて、その優しさと美しさに、穏やかな涙が溢れた。

また、幸(長女)は、すず(四女)を通して奪われてしまった子供時代を
すずは、鎌倉での新しい生活を通して、自分の居場所を見つけていく。

誰かに傷つけられたり、辛い思いをしてきた人たちが、
また誰かによってそんな自分が癒されていく。

血縁関係にあるもの同士は、繋がっているという思い込みがあるから、互いを正しく認識できなくなることがあるのではないか、と最近思うのだ。

この映画からは、そういう虚像、幻想にしがみつかなくても、誰かを慈しむような「愛」があれば、「家族」という共同体として、「血」を超えた幸せを見つけることは可能かもしれないな、という、柔らかく優しい希望をもらえたような気がする。

死ぬことが生きることの地続きにあるように、「愛」の地続きに「家族」があるのかもしれない。
それには血縁関係なんて、きっとむしろどうでもよくて、
ただ目の前の大切な人のことをまっすぐに見つめて、慈しむ、そういう心を育てていきたいと思った。

そのために、代々続く何かに触れて、季節や歴史の匂いを感じ続けることや、美味しいご飯を貯めることや、そして何より、そういう何気なさに目をそらさず向き合いたい。







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