一番大変な道を選んだのかもしれないねと母は言った
通信制高校というところがあると母親が教えてくれたのは、中学3年生の冬だった。「毎日通わなくてもいい学校があるんだって」と聞いたとき、ビビビッと何かが身体の中を走った。その瞬間にもう、心は決まったんだと思う。
中学3年生の冬休み明けから、学校へ行けなくなった。もう30年も前のことだ。通っていたのは私立の中高一貫校だったのだが、リタイヤしてしまったからそのまま付属の高校へ行ける気はしなかった。
母が進学先として私にまず提案したのは、高校の3年間で調理師免許が取れるという調理科のある学校だった。
料理には興味があった。入学試験にリンゴの皮をむくという実技があると聞いて、家ではよく料理をしていたから「らくしょー」と思ったし、そんな試験があるなんて楽しそうかもと期待はふくらむ。それで一度は受験も考えたのだけど、やっぱり毎日通うということがどうしても引っかかっていた。一度見学へ行った時に制服を着た高校生がたくさん廊下を歩いているのを見かけたのだが、自分がその中にいる姿を想像することができずにいた。
そんなタイミングで、通信制高校の存在を知ったのである。そりゃあ心惹かれるわけだ。でも母はきっと、私に調理科のある高校へ行ってほしかったのだという気がしている。娘の将来を思えば当然のことだ。通信制高校を選んだ私に「あなたは一番大変な道を選んだのかもしれないね」と母がふと口にしたことがあった。進路を決めた私はもう晴れ晴れとしていて、「そーかな?」くらいにしか受け止めていなかったかもしれないが、娘の決めたことには口を出さず応援してくれていた母がこぼした、心からの本音だったと思う。
それで通信制高校へ進学した私はどうだったかといえば、大変な思いをしたことには違いなかった。
今は分からないが当時は4年制で、4年間ずっと、自宅で自習してレポートと呼ばれるものを作成して送る締め切りに追われていた。劇団の養成所へ通ったりアルバイトしたり実家を出たりと、何かと忙しい4年間でもあったのだ。30点以上で合格というハードルの低い定期テストもいつもギリギリ、最後の方は、あまりにもギリギリすぎて卒業させられないから追試に来なさいと呼び出された。そうやって何とか卒業したから、提出期限が迫っている、どうしよう!という夢を、卒業後もずっと見ていた。
とはいえ、月に1、2回スクーリングと呼ばれる登校日に行っていた、まさに多様性という感じのクラスは、かなり自由で心地がよかった。生徒は年代も髪の色も職業もさまざま、私以上の人見知りなのではという人もけっこういた。人見知り同士ぎこちなく声を掛け合い、30年後も付き合うこととなる友達と出会ったのは入学してすぐのことだ。いわゆる普通の学校生活をゆるいバージョンで満喫、放課後は友達とお茶しながら笑い転げる。大変だからと、後悔を感じたことは一度もなかった。途中から顔を見なくなった人、「留年決定」と黒板に書いて友達と写真に収まる人、一緒に自習しようと声をかけた女子にスルーされまくる父親以上の年の人、クラスメイト同士で結婚する人、産休する人、バイク事故で亡くなってしまった人、様々なクラスメイトと私はすれちがった。
中学3年生の冬に感じたビビビッは正しかったと思う。もしかしたら母が心配した「一番大変な道」を歩いていたのかもしれない。でも思うのだ。私はそのようにしか生きられなかった。毎日学校へ通うという王道の人生は生きられなかった。
小学校6年間ほぼ不登校で過ごしたことを「経験」として入学を認めてくれた中学校の校長先生。通信制高校へ通いながら劇団に所属しているという変わり種の私を「面白い!」と言って採用してくれた飲食店のオーナー。世の中には、色んな人がいた。直感に従って歩いてきた道を後悔せずにいられた。それは母のように、まるで「大丈夫」だと言うように、時々、背中を押してくれる人がいてくれたからだと思う。