【エッセイ】鏡よ、鏡よ、鏡さん
世界で一番輝いている人はだぁれ??
おはようございます、理生です😊
ましゃこさんが、「好きなときに好きなことを。」と記事にされていた。
私は、この言葉がとても腑に落ちた。
この言葉のいいところは、「好きなときに」である。
しかし、この「自分の好きなとき」にという言葉は表裏一体だ。
ただの自分勝手な自己本位的になる可能性もある。
誰かの迷惑になることもある。わがままになることもある。
それを全て受け入れたうえで、私はこの言葉が好きだ。
なぜなら、私は、本屋でついこの本を手に取ってしまった。
果たして自由とは何だろう?
自由とは、自由ではない縛りがあるからこそ、自由と感じることであると、本を通して痛烈に感じていた。
自由ではない縛りが愛おしくも思えた。
他人に迷惑をかけることも愛おしくも思えた。
そして、一緒に同じ想いを共有していくことも。
それが無くなった今、自由を感じて、不自由さが産まれる。
自由を感じたいから、私は不自由さを求めるのではないかと考えている。
私は、1人、鏡を見て問いかける。
池 辰彦さんの記事がとても良かったので、引用させて頂きたい。
わたしは、下記のディズニーランドの記事がとても好きだ。
「好きなときに好きなことを。」を、体現なされておられる記事である。
正直、この記事を読んだときに、驚いた。
そして、それを執筆に活かすということにも、驚いた。
ぜひ、池 辰彦さんの記事を読んでいただきたいのだが、自分で自分の限界を決めてしまうというのは、勿体無い話である。
ワクワク感があるのであれば、飛びこんでみるといいんだなと思った。
何歳(いくつ)からでもワクワクを掴めるのだから。
不自由さを取れる内は、不自由さを取りに行くということもたいせつなのかもしれない。
鏡に映る自分が、輝いているかどうかは、結局は自分の心の内である。
迷惑をかける相手がいるというだけで、人生は尊いのかもしれない。
そういうことを考えていると、きくちしんいちさんの「贖罪」の記事が目に飛び込んできた。
私は、キリスト教のことはよく存じていないが、「赦し」ということが、とても尊いのだと感じる。
なぜなら、生きているだけで、他人に迷惑をかけているのだから、自分も迷惑を受けたら、それを「赦す」ことがたいせつだと思う。
人は、相互に助け合い、憎み合って織りなしている。
この両方の感情を持つ世界を「赦せる」ことができたなら、世の中はとても愛おしいものになるだろう。
残り少ない人生かもしれない。
そう考えると、多少は「赦す」行為を愛でることができるのではないかと私は思っている。
迷惑をかけれる人がいるだけで、十分に幸せな人生を歩んでいた。
私はそう思い返していた。
実のところ、超絶わがままではあるが、私はこのまま出来るだけ早く死にたいという願いは持ち続けている。
けれど、生かせていただいている分、「好きなときに好きなことを。」やってもいいのかな、とも同時に感じている。
本当に、私は赦しを乞うわがままな人生である。
さて、鏡よ、鏡よ、鏡さん、世界で一番輝いているのはだぁれ?
「その前に、鏡を綺麗に拭いてくださいね」
まずは、鏡(自分)を拭くところから始めようか!
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