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「無になる」ということ

どうも、行動原理が「面倒かどうか」な人間です。

4日めにしてしっくりくる挨拶を考えてみるが、やはり書き慣れていない感と、誰に対して語りかけているのか、ターゲットが明確でないためか、羞恥心が先立つ。
なんだこの挨拶・・・と赤面しながら、明日もしっくりくる挨拶を探すのであろう。

よく、ね○らぼさんのライターさんなどが、
「どうも、ねと○ぼライターの○○です!」
と冒頭の自己紹介をされているイメージがあるが
(面倒くさがりなので調べない)
あれは、「私はあなた方になにかをレポートするのである」という自意識、そして「あなた方になにかを伝えるときに、より伝わりやすくするため、あなた(読み手)に対して自己紹介をするのである」という責任感のようなものに満ち溢れているのだなと、改めて思うのである。
見知らぬ人の言葉なんて響かんしね。

やはりモノ書きとして、届けるべき対象や届けたい思いが何なのか等、明確にしていく必要があるのだなあと感じ入る23時であった。


閑話休題。



私は面倒くさがりな割に、割と思考をしてしまう。
思考全放棄型面倒くさい人間ではなく、思考した結果最初の一歩が踏み出せない面倒くさい人間である。
要は、理論だけは一丁前だが、行動が伴わない。
典型的ネット弁慶的陰キャといえるだろう。

人生の中で、考えて答えの出ることなどはごく僅かである。
好きな人が何を考えているのか、LINEがなぜ既読のまま返ってこないのか、どういう思いなのか、どういう感情なのか、一人で延々考え続けても、求める答えは絶対に返ってこない。
わかっている。
そのあたりのことなど、よくよく分かってはいるのである。
が、分かっているが行動に移せない。
「考えてもムダ!」と割り切ることができないのだ。
白と黒の間のグレーがわからなくてモヤモヤしているのだから、本来であれば、白黒つけるべく、行動すべきなのである。
「私のこと好きなの!?誰と何していたの!?」と、ストレートに聞きゃいいだけの話であるが、「まあ、聞かなきゃこのままの関係でいられるしな・・・聞くのも熱量使うしな・・・めんどいしまあいっか・・・」と逃避する。
逃避した割に、「でも、こうかもな・・・」「ああかもな・・・」「でもめんどいしな・・・」「でも気になるしな・・・」と、延々考え込む。
その間は、基本的にベッドの中から動かない。否、動けない。そのまま悶々と考え込む。
結果は、当然、推して量るべしである。

思うに、考えるより勢いが大事な場面でも、いつも思考が先立つということを言い訳にして、負ける理論を先に立てて自己防衛をしてから、臨むことが多かった気がする。
そりゃあ負けても傷付かんわな。負けたときのロジックを先に考えてるんだから。
と分かっているテイで話していること自体が、何か「わかっていますよ」感を醸し出していて、既にイヤである。

ただ「無」になる、ということが、私にとっては非常に難しい。
この理屈を無意識に生み出す思考の癖ごと、深海に葬り去ることはできないものだろうか。

よく、耳は閉じられないというが、脳も、眠る以外の方法で、シャットダウンさせる方法が実装されないものであろうか。
2050年くらいになったら、選択性脳閉鎖的なことができるようになって、人間誰でも「無」になれる時間が来たら良いのに。
そうすると、人間性を放棄した人間たちが、自我もなくただボーっと生命機能を維持するだけの「無カフェ」とかが流行るような気がする。
自我デトックス的な。自我からの開放的な。
無になったあと、逆に自我すごい整うわ~的な。

人類の黎明期(石器でマンモスを追い回している頃のイメージ)や、ヒトがヒトとしての尊厳を公に認められ始めた頃(ワイマール憲法とか、人権や自由が謳われだした頃のイメージ)の人からすれば、
それらを手放してしまうとはなんと勿体ない!
と叱られそうな話であるが、この厄介な自我や思考の上に、現代には無数と言えるほどの選択肢があって、とにかく生きているだけで思考したり選択を迫られたり、何かしらのエネルギーを必要とする。
そんなときに、物理的に脳をシャットダウンさせる機能は、なんか必要な気がする。熱暴走を防ぐ意味でも。自殺率とか、下がりそうな気がするんだけどな。

よく、現代人が1日で手に入れる情報量は、江戸時代の●年分とか、平安時代の一生分とか言われるが、人間の脳の器質的にそこまで容量が変わっていないのであれば、どう考えても脳にお休みタイムが足りていない気がする今日このごろである。

(まとまっていないのはわかりつつ、寝たいので終える)
(↑こういう自己弁護がすごい嫌い)
(嫌いだけど書かずにいられないあたりが、非常にアンビバレンツ・・・)







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