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【エッセイ】太宰治に恋をした

太宰治に恋をした

 太宰治に恋をした。あの、太宰治に。人間を失格して、斜陽族を生み出して、メロスを走らせた、あの人。ろくでもない男に、ましてや小説家に、恋をした小学五年生の立冬。

 小、中学生の恋愛を、大人はオママゴトだなんて馬鹿にするけど、少年少女の色恋沙汰はごっこ遊びでもなんでもない。彼らはとっくに大人なんだ。時代が進むにつれ、大人になるまでのスピードは、少子高齢化とともに加速した。だから大人ばかりが増え、子どものままでしかいられない置いてけぼりだっている。

 とにかく、ランドセルも学校指定のリュックサックも、本気の恋心を詰め込んでいる。私はそこに太宰治の小説と、彼への恋心。

  たしか、「だざぴ」って呼んでいたっけ。二十歳になって思えば不敬なんだろうと冷静になれるし、天皇の誕生日をJK流に祝ったくらいで炎上する世の中だ。でも彼が言うように世間とは人なんだから、私はたぶん永遠に、だざぴ、なんだろうな。

  そうして、この初恋を追いかけながら、私は今日も一冊を手に取る。

 ――人間、失格。

 名前を呼ばれたと思った。背骨をなぞるみたいに、なめずる視線で。「人間失格」を印字された小説の背表紙が、呼んでいた。

  青森のとあるショッピングモール。マック、うどん屋、蕎麦屋、クレープだってある。田舎にしては遊びがいがある建物の、本屋。本好きの母親に無理やり連れ出され、上着も羽織らず家を出る。かじかむ指先が“わや、かちゃくちゃね”くて、早く帰って漫画でも読みふけっていたかった。

  小説なんてインチキは、嫌いだ。嘘をさも現実ごとのように書き、感情を動かそうとしてくるから、嫌い。偉い人が読めよ読めよという「偉い」小説は、みな堅苦しく気取っていて、正しい生き方を要求された気になって閉塞感を覚える。

  けれども私は彼の一冊を、本屋中央に位置する棚の三段目から背伸びをして抜いた。

  ダザイなんちゃらという人は知っていた。小学校三年生の時分に、地域の貧しい劇団が「走れメロス」を披露しに来た。

  全校合同の、総合的な学習の時間。六年生は寝こけ、一年生は黄色い帽子もぶん投げてメロスのヒーローっぷりに傾倒する。応援を力に盗賊をぶった切って疾走したメロス。このダザイなんちゃらは、正義を主張するんだな。でも、リアルを追求するなら、セリヌンティウスを裏切ってほしかった。

  夕焼けを背負って王に叫ぶメロスの演技が、眼球に瘡蓋となって張り付く。

  ダザイなんちゃらの第一印象は、情に厚い男、になった。

  正義を熱弁したはずのダザイなんちゃらが「人間失格」と言うのは変な話だ。解釈違いも甚だしい。あるいは、ダザイなんちゃらと太宰治が居て、全くの別人かもしれない。

  本を開いてそでに目を通す。太宰治。代表作、「人間失格」、「斜陽」、「走れメロス」……ダザイなんちゃらは太宰治だった。二重にブレていた空想的な作者の顔のピントが合う。

「アンタ、そんな根暗なの読むの」
「ね、くら」
「太宰はまだ難しいんじゃない」
「むずか、しい」

 根暗で難しい。なら、私は太宰治を好きになれるかもしれなかった。

  あの短い劇の後も、教室に戻って第一声は、いわゆる“しんでしまえ”というもので。白熱した劇の道徳はまるで無かったことのよう。あっという間に言葉が人と人とに伝染し、人の裏の言葉が教室全体に蔓延った。

  九歳、「走れメロス」を観る頃にはもう、私はしにたかった。歳を重ねて十一になっても、変わらず、しにたかった。そんな私を、アイツらは根暗と言って、母親は小難しい娘だと呆れかえっている。根暗で難しい、のは私も同じだった。彼を好きになれると思った。

「ね、ホントに読むの、それ。アンタが読んだら病んじゃうよ」

 とっくに病んでるよ。

  母親の嘲笑を耳くそと共にかっぽじりながら、私はその一冊を買った。三百円だった。

 ――いまは自分には、幸福も不幸もありません。

 ――ただ、一さいは過ぎて行きます。

 一さいは過ぎ、不幸も幸福もなかったはずの、私は、泣いた。数年ぶりに涙の塩を味わった。月も床に入り、足元さえ見えなくなる時間。布団にくるまって、おいおい、滝を浴びるように豪快に泣いた。葉蔵が死んで終わらなかった小説の結末に、たったそれだけのことに溺れ泣いた。本を胸の中に抱き、縮こまって懺悔するような体勢で枕を濡らす。

 まるで、写し鏡を見ているようだった、から。

 親への恐怖、人への不信。その忌まわしき人間の醜態に向かった感情の一つ一つが、私の脳漿をインクにして書いたみたいな小説だと思った。

  虐められてきたんだ。親にも、先生にも、純粋と言われた自分と同じ子どもたちにも。だから、この小説に書かれていることは、まごうことなき真実に違いなかった。

  神様みたいないい子を書いた太宰は、私の神様になった。私の神様が葉ちゃんを殺さなかったから、私も生きてみる。

  小説は、もしかすると、誰かの人生を喜劇にするためにワザと嘘を吐くのかもしれない。ワザ、ワザ。

  ねぇ、きっとそうでしょう。

  マイ・コメディアン。M・C。

  何だって読める気がして、何だって読んだ。「走れメロス」も読んだ。正義の正体は、人間臭い疲労と魔が差したあとの始末。メロスだって人間だった。

  そうして、「女生徒」も読んだし、「斜陽」や「津軽」も読んだ。とにかく太宰はおおかた読んだ。彼の泥臭さに愛着湧いて、だざぴ、つい呼んだ。

  はたまた、芥川龍之介やら中原中也やらと手あたり次第読みゆくようになり、しにたかったのも忘れていた。人の群れから零れて取り残されていた私は、少し前の時代の言葉に拾ってもらったんだ。もう、一人じゃなかった。

  何十冊と積まれた本の中の、どこで恋を自覚したのか。今となっては正確に覚えていない。が、太宰の残した「人間失格」をはじめて焼き付けた眼と胸の熱さは、確かに、恋だった。あの物語は、当時の私の居場所だった。

   ――その手記に書かれてあるのは、昔の話ではあったが、しかし、現代の人たちが読んでも、かなりの興味を持つに違いない。

  太宰治に、恋をした。早くも、十二年が経つ。現代人の私はすっかり本の虫になって、誰に置いて行かれるのも怖くなくなった。ゆっくり生きよう。たまには歩かなくたっていい。後ろには、既に生きていた人の言葉がサラサラ流れているのだから。

  あなた。

  そう、大人になるになれず震えている、あなた。

  ちょいと本でも読んで、寄り道でもしたらいいの。私が恋した小説家の話、ひとつ、どうだろうか。


あとがき

 それから。太宰治に妄信した私は近代の文学本をひたすら読みました。高校に入って、同じように本が好きな友人と、出会いました。生涯の二人の親友もそこに居たのです。また、私の本好きなことと根暗なこと、捻くれた物の考え方を面白がってくれる友人とも出会い、そこに今の婚約者も居て。たくさんのご縁を、彼への恋心が手繰り寄せてきたようです。

 やがて読むだけでは飽き足らず、研究までし始めて、ついには自分でも物を書くようになったのです。今では、作家様や読者様に、こうしてまたもご縁をいただいています。

  大学受験だって、(その大学ならではの受験形式だったので少し特殊なのですが、)太宰の論文を書いて提出しました。それは学びの実を結び、晴れて大学に通い、三年になりました。

 九歳からのあの気持ちは、おそらく、ずっと変わらないでしょう。不器用に生きていくしかなくて、生きていたくなくなるのです。生きるのが上手くなる周りを見て、孤独に苛まれることもあるんです。

 でもね。

 私はどうやら、太宰治に恋をして巡り合った人たちには、あんまり泣いてほしくない。だから少しでも生き延びてやろうと必死になれるんです。たった一人への恋心と、その縁に、突き動かされているのです。

 あなたも、恋をしてみたらいいわ。小説家じゃなくっても、漫画家でも、シンガーソングライターでも、何でもいいの。恋ってね、不思議なの。それが文化に恋をしたら、なおさら人生は愉快になるの。

  あぁ、でもやっぱり、どうせなら、小説家にしたらいい。特に、威勢のいい無頼漢なんかがいいんじゃない。

秋杏樹


参考文献(引用元)

太宰治 『人間失格』
太宰治 『斜陽』
坂口安吾 『不良少年とキリスト』



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