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6月23日 水事無しの日

(いつもより少し長めです※2400字程度)

 誰かが出しっぱなしにしているどこかの水が、プットン、プットンと一定のリズムで落ちている。

 気づいたのは午前3時のことである。

 私は布団から出てそのまま台所へ向かいそれをキュッと閉める。ウォーターサーバーのレバーがきちんと閉じられていなかったのだ。

 私は概ね毎日3時に起きている。長い間ずっと粘ってようやっと習慣にできた早起き。この時間は私の自由な時間である。といいつつも、仕事を兼ねている時間もあるので自由と言い切るのはまた違うかも知れないけれど、つまりは私だけの時間である。

 それでも、平日の7時ころになると家事をしなくてはならない。朝ご飯の支度から洗濯、こちらも習慣にしているトイレ掃除(トイレを磨くことは心を磨くことだと信じている)など、やることは山のようにあるのだった。

 でも、今日だけは水仕事もなにも全くしない。

 今日は、結婚30周年である。


 昨年、夫は還暦を迎え、それまで勤めていた会社を定年退職した。現在は同じ職場で嘱託として雇われ週3日出勤している。その彼は、まだ布団の中でぐっすりである。今日は仕事が休みであり、ぬくぬくと、いつもよりゆっくりと眠り、いつもよりのんびりと起きてくるだろう。

 私はその彼が起きてくるまでのんびり原稿を書きながらカフェオレを飲み、思い返す。

 私たちの30年の始まり。

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 間もなく3時である。どこから水滴がプットン、プットンと一定のリズムで落ちる音がする。ふっと聞こえてきたが、布団の中でのまどろみが心地よすぎて出られない。

 まぁ、でも大丈夫でしょう。妻が起きて止めることだろう。

「プットン、プットン、プッ・・・・・・」

 ああ、ほら。止めてくれた。

 彼女はもうここ20年近く、朝の3時に起きている。どうやらその時間で自分の仕事やら家計簿やら読書やら録画した彼女の好きなドラマやら、そういったことをこなしているようだ。
 日中にやればいいのにと昔言ったことがあるが、そんな時間はないのだと一蹴された。そらそうである。たとえば20年前は子供達もやんちゃ盛りだった。生まれたばかりの末っ子もいたし、一番上でさえ小学2年生くらいだった。忙しさの極みだっただろう。

 今でこそ、彼女の夢だった物書きの仕事で原稿を書いていたりするが、当時は会社勤めだったのだから時間がないのは無理もない。

 よくやってくれていたと思う。もちろん今もそうだ。

 定年後、私の出社が週に3日になったために、残る4日は家にいる。3食の食事の準備はいつもありがたいと思っている。これはもちろん昔からそうだけれど、やっぱりよく頑張ってくれているのだ。

 けれどきっと、彼女の起きる朝のこの時間に、私がこんなことを思っているだなんて知らないことだろう。

 あなたも起きて一緒に過ごしましょうよと、いつだったか言われたことを思い出す。でも私は眠ることが好きなのだ。眠っていなくても、いつでも二度寝ができるようなまどろみの中で、彼女を思うことが幸福で仕方がないのだった。

 だから時々、彼女と同じ時間に起きて布団の中でまどろんでいる。

 そうして今日も、布団の中で思い返す。

 私たちの30年の始まり。

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「おめでとうございます!」

 司会者の良く通る声が会場に広がると、それにあわせるようにして大きな拍手が沸き起こった。

 その直前、私たちは二人で持った大きな木槌で、大きな酒樽をガッコン!と割ったのだった。

 30年前、私たちの結婚式では、よくあるキャンドルサービスではなく、樽割サービスを行った。

 ゲスト達の各テーブルを周り、小さな酒樽を割っていくのだ。知らず、最初の乾杯で割ってしまう愛しいゲストもいたけれど、大いに盛り上がったイベントである。

 その時の私たちの衣装は和装である。鮮やかな私の着物はレンタルだが、一目惚れした柄であった。そして彼の和服姿はとても良く似合っており、格好良かったのだ。

 もちろんその後の洋装も悪くない。普段見ないタキシード姿には、トレードマークのようになっていたその坊主頭が妙に似合っていたし、何を着ていても、結局彼は彼のままであり、愛しいのである。

 私はというと、母の作ってくれたウェディングドレスと、妹の手作りのベールを身につけ、体中がなにか温かなものに包まれているように感じた。遅刻せずに来てくれた弟とそれを見守った父にも感謝をしておく。

 ウエディングケーキは2人の共通の趣味を模したものであったし、BGMだって2人で選曲したベストソングたちである。

 結婚式は2人初めての共同作業と言われることがあるが、なるほど確かに共同であるし、作業であった。

 そうして作り上げた結婚式は忘れられない宝物となった。

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 『あれから○○年』などと思い返せる出来事なんてそんなに多くはないだろう。その数少ない一つが結婚式である。

 ことあるごとに振り返ることができる記念だ。

 30年前のそれは恵まれた結婚式だった。結婚の儀を執り行った神社も、披露宴を開催したホテルも、どちらもスタッフの方々がとても親身になってくれたし、感謝しかない。列席いただいた親族や友人、会社の方々も楽しそうに笑ってくれたのが印象深い。

 そして何より、妻がかわいらしかった。

 着飾った衣装もそうだし、両親への手紙で嗚咽を押さえる彼女が何とも愛しく思えた。彼女の口元に私が当てていたマイクの高さが気に入らなかったようで何度も直されたのには少し困ったが、それでも彼女は可愛いのだった。

 その彼女と結婚し、幸いにも3人の子供に恵まれ、末っ子は今年で20歳になる。
 
 私は、彼女との誓いをきちんと守れたのだろうか。彼女は幸せでいてくれただろうか。この30年間、幸福の責任と子育ての義務、すべてを果たし尽くすことができただろうか。

 私はようやっと布団をでることにした。

 階段を下り、台所に入ると彼女がそこにいた。手にはカップを持っている。時刻は朝の5時。あら、早いわねなどと言って笑う彼女の笑顔は昔から変わっていないのだった。

「おはよう。カフェオレでしょう。僕が入れるよ」

「あら、いいわよ。私が飲むんだから」

「今日はいっさい炊事をしないんだろう?」

「ええ、まぁ。でもこれくらい」

 そう言ってカップを取り戻そうとする彼女の手を私はそっと握る。

「30年、ありがとう」

 私が言うと彼女はまたほほえんだ。

「あなたからこんな早朝に言われるとは思わなかったわ」

 ふふふ、と笑い、カップを取り戻す。

「30年、幸せにしてくれてありがとう。これからもよろしくお願いしますね」

「うん、幸せだと思ってくれてありがとう。こちらこそ、これからも末永く頼むよ」


 そう言って私は彼女のカップにインスタントコーヒーを入れ、ウォーターサーバーでお湯を入れる。プットン、プットンと一滴ずつの新たな幸せが落ちてくる。

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【今日の記念日】

6月23日 水事無しの日

兵庫県加古川市に本社を置き「コスモウォーター」ブランドで天然水の製造・宅配業務、独自開発のウォーターサーバー事業を手がける株式会社コスモライフが制定。ペットボトル飲料を買って運ぶ手間、お湯を沸かしてお茶を入れる手間など、飲み水に関わる水まわりの家事を水事(すいじ)と命名。水事の負担軽減にウォーターサーバーが役立つことを知ってもらうのが目的。日付は「水」にちなみ、陰暦の異称「水無月」から6月で、その毎週「水曜日」に。

記念日の出典
一般社団法人 日本記念日協会(にほんきねんびきょうかい)
https://www.kinenbi.gr.jp の許可を得て使用しています。

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