(最終回)喫茶『彼』⑨【連続短編小説】
※前回の「喫茶『彼』⑧」はこちらから
アリジゴクは毒を持つ。その毒性はフグ毒のテトロドトキシンの130倍と言われている。消化液となるその毒で捕まえた虫の体内を液状化させて飲み尽くすのだ。
「ねえ、僕と行こうよ」
彼の手のひらがそっと頬に触れ、私を確かめている。ぐにゃりと微笑む彼が、私にはとても愛しかった。このまま、彼に絆されるままに体を預け、もう一度その口づけを、そうして一緒にいることが出来るならば私はいっそ幸せにでもなるだろう。そう思えば思うほど胸の中が熱くなる。そして思うほどに冷静になる私も、同じようにこの場にいるのだった。
「行かないよ」
私は気の向くまま、頬に触れた彼の手のひらに自分の手を重ねた。私が熱を感じるのは彼のそれではなく、もう私のそれだけである。
彼はなぜだか分からないと言う顔をして私を見ていた。その視線にわずかに興奮を覚える。
「行かない。あなたとは決して行かない」
「なぜ」
「私は、私で生きることにしたから」
私は触れていた彼の手をゆっくりと離した。名残惜しくも決めたことだったのだ。私は、彼と生きることはしない。
「あなたといるときっととても素敵な日々を過ごす。目が覚めてあなたがいたら、ふと振り返るそこにあなたがいたなら、眠るときにこの世の誰より一番近くにあなたの美しいその顔があったなら、どんなに幸福な毎日になるか知らない」
そうだろう、そうだろうと彼はとても満足そうに頷いて私の頭を撫でた。私は続ける。
「生きていれば必ず訪れるだろう、憂鬱な日や死にたくなるようなその時も、あなたがいたならばきっと、迷うこともなく私は私でいられるかも知れない。だから、だからこそ、私はやっぱりあなたとは行かない」
「そんな日々にも君一人で耐えるというのか」
彼の手はすでに私から離れ、そして私は頷いていた。
「うん、私はそれを選ぶことにした」
彼は私の顔をじっと見て、選ぶのかと呟いた。
「随分と苦しいものだけど、私はあなたに教わった。人生とは『選択』の連続であり、選択してしまえばあとは容易だと。あなたと生きることさえ選んでしまえば、そこからは私が悩むまでもなく全てのことをあなたが決めてくれるからきっと容易になるだろうね」
「だったらなぜ」
「でも、私は、容易に生きるよりも、人として生きることを同時に選んだ。どうしようと悩み、こうしようと決め、再び何かに悩んで決める。そんな苦しくてささやかな毎日を選んで、私はそれを自分の人生にしようと決めた」
どこかからスッと冷たい風が抜けて私を冷やす。ぷん、と雨の匂いがした。
「それとね、あなたの教えてくれた『選択』は毎日永遠に続くものだけど、そこに限界があると気付いた」
「限界?」
「何だって、やるかやらないか、YESかNOを決めてしまえばいい、それを繰り返し続ければ毎日を容易に生きられる。けれども、その『選択』には相当な体力が必要だった。大なり小なり、選択を繰り返すほど疲労が蓄積される。私は正直、この一ヶ月は毎日がぐったりだった」
深く考えることなく、どうするかを瞬時に決めてしまえばそのあとの行動が決まり、容易に動けるようになる。これは彼の言うとおりであり、実際に私の行動は速くなったし、いつまでもくだらないことに頭を悩ませずに済んだことで気持ちは軽かった。けれど段々と頭と体が疲弊していることに気付いた。何も考えずに選択していると思っていたが、実は頭の中をフル回転させて知らず高速で物事を判断していたようだ。それに伴って疲労感がひどく、私は一日動けなくなることもザラであった。
「選ぶことは、苦しいし、とても疲れる」
「だからだよ!だから、君と僕とで選択を分け合って一緒に生きよう」
「苦しいけれど、それは自分自身が生きるためには必要な苦しさなのだと今は思う。だから、私は自分自身を生きるために、その苦しみを選択することにした」
彼の目からは涙が溢れ、その顔が歪む。美しい顔のこの人がこんなにも表情を崩すのを初めて見た。こんなに鼻筋が通っていただろうか、口角には細かなしわもある。上気した頬がかわいらしい。それを見て、私はやはり興奮する。
「だから、私はあなたを選ばない」
「君は弱いのではなかったのか。僕と同じではないのか」
嗚咽を混じらせて鼻をすする彼が妙に愛おしい。今度は私が彼を抱きしめる。耳元に唇を寄せた。
「私は確かに弱い。弱いからこそ弱いあなたとは一緒にはいられない」
そんなことを彼に告げた。私の興奮は高まり、何だったら少し勃起していた。軽く耳に口づける。そしてイメージした。アリジゴクが砂の谷間の巣に取り込んだ小虫に毒を注入する様に、私も彼に毒を注入するのだ。そうして彼の体組織を液状化させ、それを吸う。
彼はまもなくカラカラになるだろう。そして私はそれをポイと巣の外に放り出す。なんと、素敵な愛だろう。一体化するのだ。
私が彼を選択しないのは、選択せずとも彼を取り込んでしまうからだと気付いたときにはもう、彼はきっとここにいない。そうして私は彼と出会うこれまでと同じようにして悩み、生き続けるのだろう。人はきっと死ぬまで同じことを繰り返すのだ。
アリジゴクは彼ではなく、私だった。
テーブルの上、涙の粒に羽を濡らしたウスバカゲロウがこちらを見ている。私は微笑み、そっとつぶしてやる。
(完)
2ヶ月の間、お読みいただきありがとうございました。
ぐちぐちとずっと同じことで数年悩み続けているのですが、一向に解放されません。でも多分、それが結末なのだろうと思い始めました。だって答えがないから答えも出ないのです。
仕方ないなぁと思いながら、一緒に生きていこうかと思う今日このごろ。
寝苦しい夜が少しずつ顔を出してこちらを見ています。背けることなく、たまにはじとりと寝汗をかいてみようかしらん。
短編連載はこれで予定していた6本全てが完了となります。
2年前に書き連ねた記念日小説をKindle出版したいなぁと思い、修正を進めております。少しお時間いただきますが、ひょっこり書いてはアップしますので、お会いできると幸いです。
皆さん、今はどちらにいらっしゃいますか。
元気でいらっしゃいますか。
私は今もここにいます。
どうかご自愛ください。
あにぃ
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