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喫茶『彼』⑥【連続短編小説】

※前回の「喫茶『彼』⑤」はこちらから

 昨日はきれいな満月だった。連日の雨を無かったことにするような雲一つない空に、ぽかりとただ黄色くまるい月。何となくスマホを空に向け、写真に撮った。保存され、今、私のスマホの中にそれがある。

 同じような感じで、彼のことは私の頭の片隅や胸の奥深くにいつもあった。それが奇妙で歯がゆいと先週会ってからずっと思っている。腕の中で抱きしめられていたその温かさはつゆほども残っていないのに、今も私の中に彼がある。

 私は、彼が言ったように一日の全てを『選択』することにした。選択するまでも無いことも含めて全て。例えば朝は目を覚ましたその瞬間から、夜は目を閉じるその最後の時まで、行動することが頭に浮かんだらすぐに実行した。起床時間になって目覚ましがなり、目を覚ます際に自分に「起きるか」と問う。私は「起きる」を選択し、布団をでる。同じようにして「トイレに行くか」「顔を洗うか」「着替えるか」「朝食を食べるか」「会社に行くか」といちいち問うてみた。答えはほとんどイエスである(「この本を会社に持っていくか」と言う問いだけはノーとなった。重いから持って行かないことにしたのだ)。そうして、「電車に乗るか」「降りるか」「仕事をするか」と続き、一日を終えた。行ってみれば面倒ではあったがそれ自体は簡単なものであり、意外に気を取られるのだった。気を取られると言うのは決して悪い意味ではない。頭の中が常に選択で満たされており、仕様もない他者への気遣いや考えても仕方のないことなどを考える暇がなくなったので、選択することに気を取られていたのは良い意味である。おかげで仕事は、つつがなく終えることが出来たのだった。とても残念な気づきとして、おそらく私はくだらないことを考える暇が多分にあったのだろうと思う。もしくはその暇を作り出すためにいくつかの仕事を先送りにし、それでいて忙しいといつも感じていたのかも知れない。そしてそれがなくなったことでとてもクリアな頭の中となった。

 確かに彼の言うように、どんな小さなことでも『自分で選んだこと』だと思うと、わずかずつでも自信のようなものが積み上がるのを感じた。行動を選択するなんてことはおそらくずっと行っているいつものことだろう。ただそれを意識したことはもう随分とない。だから、きっと新鮮さもあって良い刺激になったのかもしれない。そんなことを、今日の夕飯にと『選択』したコンビニ弁当を持ちつつ思っていた。

 今日は彼の店に行かないと言う選択も、もちろん私で選んだことである。

 今週から在宅勤務をやめたのだった。昼時間も出社しており、そもそも家の近くの彼の店には行けない。不思議と彼に会えないと言うもの悲しさよりも「行かない」と自分で選択したことへの妙な誇らしさの方が勝っていた。

 仕事帰り、コンビニに寄り、少しだけ遠回りをして彼の店を通ってみた。客が入って繁盛しているようである。レジや厨房の方に視線を延ばしてみたが、彼は見つけられなかった。いないのかもしれないなと、何となく思った。彼は店には出ず、どこかまた別の誰かを抱きしめたりなんかして、そうして時々キスをしたりもしかしたらそれ以上のことをして、その誰かを励ましているのだろうか。本当に何というか、気持ちの良いものではない。私はこれまで女性を愛する性自認であったが、彼に会ってからはそれ自体に疑問を持つようになっている。つまり、私は彼にそれまでの女性に抱くような気持ちや、ややもすると興奮を覚えるのである。そしておそらく、私と同じように彼に特別な感情を持つ客もいるのではないか。

 だって、その手はとても温かかった。その目はとても愛情深く、好意のせいなのか、彼の匂いがたまらなくいとおしい。

 私は彼に特別な感情を抱き、性的興奮を覚えている。

 そうして、私は彼に対して選択を始めることにした。

『愛と云うのじゃないけれど 私は抱かれてみたかった』

 果たしてこれは誰の歌だっただろうか。

                                                                             続                       喫茶『彼』⑦【連続短編小説】-                                                   6月12日 12時 更新

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