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喫茶『彼』⑤【連続短編小説】

※前回の「喫茶『彼』④」はこちらから

 彼の腕の中、そこは温かく、澄ましてみれば鼓動が聞こえる。

 はたかれて死んだウスバカゲロウは今頃どうしているのだろうか。ふと思い出してみるが、死んだならばどうしているもなにもこの温かさもないのだと思い直す。

「うん、温かいですね」

 彼が私の首筋に顔をうずめ、すんすんと鼻をならして私を嗅いだ。蒸し暑さからいくらか汗をかいていた私は途端に恥ずかしくなり、慌てて彼の胸を押して離れようとした。が、それを覆うようにぎゅっと抱きしめられた。

「うん、温かい」

 彼はもう一度そう言って、今度は私の頭を撫でる。四十の男がそうそう誰かに頭を撫でられることなどないので、私はそのまますっぽりと彼の腕の内におさまることにした。もしかしたら、多少汗の匂いがあるくらいの方が、彼の中に自分を残せるのではないかとも思ったりする。

「なにも、決められませんでした」

 私は、そうすることが自然であるように口を開いた。

「なにも決められないまま、ここにまた来てしまった」

 私が続けると、彼はその手を止めて私の頬に触れた。不思議にも、温かい彼のその手はひやりと冷たかった。

「『なに』を決めたかったのでしょうね、あなたは」

「『なに』と言われても・・・・・・。そうですね、せめて死ぬか生きるかは決めてしまいたかった」

 私がぽつりただ思うままに口にすると、見上げた彼の顔は柔らかくほほえんでいた。

「それはほら、もう決めているでしょう。今ここにいる、それが全てだと思うよ」

「今ここにいることが?」

「はい、死んでいないでしょう。生きているから。生きているということは、結果的にそれを選んでいると思うのだけれどどうだろう」

 そう言われ、なんだか横暴だなと思いつつも、確かにそうだとも思った。選んだつもりはないが二択の内の一つでいるなら、それは選んだことであり、私はそれで『今ここにいる』。彼は続けた。

「生きると決めたら、じゃあ次はどうしようかね」

 ドキリとしながら、彼の目を見ていた。その顔はニコリと微笑んでいるのに、目だけは遠くの本当を見ているようだった。

「次・・・・・・」

「うん、次。さしあたって、注文したハンバーグは食べる?」

 そう言われ、視線をさまよわせると近くのテーブルにさっき注文した『しそ香る和風ハンバーグ』が置かれていた。いつのまに。

「はい、食べます」

「うん、じゃあ、今すぐ僕の手をふりほどく?」

「はい、あ、いや、まだその、もう少し」

 言葉ではたじろいで見せた私だが、体は少しも動いていなかった。彼の腕の中からでる気はないらしい私。

「うん、うん、それでもいいよ。じゃあ、もう少し抱きしめさせてね。で、そのあとでハンバーグを食べよう。そうしてお腹が満たされたら、少し深呼吸をしてみようか。人の体温と、お腹の暖かみ、それを頭の中で反芻してみて、それで」

 彼が言葉を止めて私を待つように息をした。

「今日を生きよう。そうして同じように一つ一つを選択して、その選択だけに気を払い、終われば次を選択してそれを続けていって、また明日を生きよう」

 一つずつを選択していくのか。そう思うと毎日がとても長く、困難に思えて、さらにはその選択のゴールが見えないことに私は眉をひそめる。その眉間に出来た私のしわを、彼は丁寧にのばしてまた微笑む。

「キスをしてもいいだろうか」

 そう言われ、思わずうなずいた。
 そうして彼は、私に口づけた。

「大丈夫。やることは今までとさして変わらないよ。でも、自分の行動は全て自分で選べるし選ぶのだと意識をしていることで、それが積み上がっていくと少しずつ自分が見えてくると思う」

 何となく、彼の唇が触れて離れた私の唇に指を当てる。そんなはずはないのに、唇が温かくとても柔らかくなったように思えた。

 唇に彼を感じる。

「こんな風にキスをすることも、このあとで食事をすることも、この店を出ることも、家に戻って仕事をすることも、仕事のそのやり方も、全てあなたが選べるし、それらは全部同列なものなのだよ」

 私はまだ唇に指を這わせたままで、彼に聞く。

「私は私の仕事をすることに意味も、希望する選択そのものも見いだせない」

「そんなもの見いださなくていい。例えば、好きか嫌いかで嫌いであってもそれでいい。やるかやらないかの二択をするだけでいい。やると思うならただやればいい。選択ができたなら、別に意味はいらない。あっ」

 そこまで言うと、彼は私の背後、数メートル先をみる。つられて私も視線をやるとそこにクサカゲロウらしき緑色のものがある。さっきのそれだろうか。

「さて、はたくか、ほうっておくか」

 私の額にキスをして、彼は席を立った。

 クサカゲロウは緑色しか見えないから好きじゃないんだと、歩きながら彼は言っていた。

 私は、香ばしいハンバーグの香りにようやっと気づくが、しそはもう香っていない。

                                                                             続                       喫茶『彼』⑥【連続短編小説】-                                                  6月5日 12時 更新


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