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乗客に日本人はいませんでした

昨日の、新土氏と大田ステファニー氏のXにおけるスペースは良かった。若く、影響力を持つ言葉を使う才能たちが、あれだけの求心力で平和を叫ぶことは希望だ。多くの人々の胸を熱くさせる。行動を起こさせる力もある。私だって、できることはやりたいとずっと、ずっと思っている。し、やってきた。

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デモに行き、一人でも官邸前に立ち、戦争反対を叫び、SNSでも訴え続けた時代の私を知る人もそれなりにいると思う。数年前から随分とそのようなことを言わなくなったことも、時折人から指摘される。その度、なんと説明したらいいのか途方にくれる。分かってもらおうと出てくる言葉はすべてミスり、違うんだ、こういうことが言いたいんじゃない。それはいつもそうだ。出てきた瞬間に、言葉と本心が違うんだと分かる。あれはなんなんですかね。話が逸れた。いつもそうだ。

根本的な考えが変わったわけでは全くない。でも、声をあげることに疲れる時があった。それが、少しずつ少しずつ増えていった。そしてそれらは周囲をも疲れさせる。おめおめと暮らす人間どもが疲れたところで、だから何?とも思うけれども、事実ではあることは否定はできない。

逃げたんですね、と言われたら、そうだと思う。ニーメラーの警句を思えば、私が『こういう風』になった限り、私を救ってくれるものはもういないだろう。仕方がないと、どこかで思っている。
それでも、何かが正しいのだと大声で訴えることができなくなったのだ。くだらないですよね?私はくだらないと思っている。

作品には、必ず意志をこめている。BGMとして少し弾くだけのピアノも、二時間を超える演劇の脚本も。それは矜持からだ。
でも、大声で言えなくなったのはいつからなのだろう。何が正しくて何が正しくないと、人の命が奪われている今ですら、どうしてこうも言えなくなってしまったのだろう。

話は変わる。変わるが、私の中では繋がっている。
古き、白人米男性作家の文学が好きだ。あの、孤独と諦観と、銃で自衛しながらずるずると暮らし、最後にはその銃で自殺するしかないあの救いのないどうしようもなさが、日本のど真ん中のアラフォー女なのに共感してしまう。別に良くはないとは思っている。みんな悉く、判を押したように拳銃自殺ばかりするな。

最近は少し思うんだけれども、正しくないことなんて、みんな、本当はずっと分かっているんじゃないかな。分かっているのに、止められない。
物事の多面性を、どこまで許せるかは結局のところ個人次第で、倫理なんか一体どこにあるというのだろう。

私は気持ちのどこかで、助けて欲しかったのではないかと思っている。弱き者を助けているつもりで、声を上げられる場所にいる自分が大声を出すべきだという使命感で。小さき小さきミクロの自分のまわりのちっぽけな社会から、助けて欲しかったのだとしたら、やっぱり拳銃自殺するしかなくなってしまうではないか(残念ながら拳銃はないし自殺も100%しませんが)
つまり私は最初から新土氏たちのような活動家にはなれず、ましてや今、あの頃あんなに憤っていたはずの 乗客に日本人はいませんでした に慣れてしまったのだ。

私なんぞが信じられる神がいたら、教えてほしい。


『ニーメラーの警句』

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

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