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ブッダの遺骨 仏舎利の行方 2

■1898年に イギリス人技師のWilliam Peppé が遺跡を発掘する

 (①続き)仏教がインドから消滅した13世紀からさら500年後の1898年、当時イギリスの植民地であったインドにロンドンから砂糖工場の設立任務を受けた William Peppe がある古墳を発掘します。

 元々、ウィリアム・ペッペは1842年、弟のGeorge と一緒にロンドンから砂糖精製工場の設立と生産の命を受けてインドに来たのですが、弟のジョージは程なく体調を崩してしまい兄を残してイギリスに帰ってしまいました。砂糖精製工場の仕事はどうもうまく行かなかったようです。

William Claxton Peppe

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  その後、ウィリアム・ペッペはネパールにほど近い北インド地方のバドプールという町に、当時の東インド会社がオウド王国から摂取した土地で”ジャングル・グラント”と呼ばれる50年リースの土地のマネジメントの仕事に就くことになります。その当時、「50年間その土地をマネジメントすることができれば、誰であれその土地を与える」という条件で入植者と開拓を進めていったそうですが、成功したのはごく一握りの人達であったそうです。この土地はジャングルと沼地とに挟まれた肥沃な土地であった代わりに、マラリアで知られた厳しい環境であったそうです。しかしながらウィリアム・ペッペはそんな過酷な状況にもかかわらず毎年土地を開拓し広げていったのでした。

北インドのネパール国境近くウッタル・プラデーシュ州バスティ県のBhaupur (バドプール)

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■1898年に イギリス人技師のWilliam Peppé がPiprahwa (パイプラハワ)遺跡を発掘する

 1897年にWillam Peppe は 地元の人々からPiprahwa Kot (パイプラハワ・コット)と呼ばれる広範囲の盛り土があることに気が付きこれを掘ってみることにしました。この時 Vicent Smith がウィリアム・ペッペ の仕事を目に留めていました、彼はインドの市民サービスの行政官のテストに受かってその仕事をしていましたが、遺跡の発掘と古代言語の解明に情熱を注いでいくようになります。程なくして彼はウィリアム・ペッペ にこの遺跡は仏教遺跡に違いないと確信を持つようになり、採掘方法のアドバイスをするようになります。

盛り土(掘削前のジャングルの状態)

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現在のパイプラハワ

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当時の採掘計画(左の丸型の遺跡に塹壕の跡がある)

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現在の遺跡の様子(Google mapより)

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グーグルマップのリンク Piprahawa 

ウィリアム・ペッペは翌年1898年、盛り土の中心を7メートルほど掘った所に 700kg程度ありそうな四角の石の棺を発見します。

7メートルの掘削

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ストゥーパの底にある石棺

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石棺 砂石(Sandstone) サイズ 横132.08cm  x 縦66.17cm x 高さ 81.92cm

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石棺を開けてみると中に5つの骨壷が入っていました。

容器

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クリスタル(水晶)の容器 高さ11.5cm 周囲34cm

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ソープストーン(滑石)の容器

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 骨壷を取り出してから数日の後、何人かの立会いの下骨壷がウィリアム・ペッペのバンドプールの家のダイニングルームで開封されました。残念ながらどの容器に何が入っていたか記録することはできませでしたが、骨壷からはおびただしい宝石と骨のようなもの、灰のようなものが含まれていました。

容器の中身1

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容器の中身2

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容器の中身3

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容器の中身3 一番上のものが骨との事

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容器の中身

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容器の中身

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容器の中身4 中央 Teeth (歯)と書いてある お釈迦様の歯であろうか

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■1898年1月 ウィリアム・ペッペはヴィンセント・スミスと Dr Führerに向けてある古代文字の解読を依頼します。この解析依頼と分析がこの遺物の持ち主を特定する大きな手掛かりとなったのです(続く)

解析依頼の古代文字

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【参考資料】

Willam Peppe の子孫による webesite 

The Piprahwa Projcect 




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