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ルアンポー・プラモート師(気づきと智慧で渇愛に打ち勝つ)2020.9月6日②

(①から続き) 私達が真剣に瞑想するとき、先に苦を乗り越える事を目指します。その後に苦を乗り越えた場所に到達します。私たちの心が苦から脱した時、それは阿羅漢に到達した時です。これをsanupādisesa-nibbāna(身余依涅槃うよえねはん*)と言います。涅槃に達してもまだ体が残っている状態の事です。肉体の苦はまだあります。しかし心は苦から解脱しているのです。心はもはや苦を感じないのです。肉体の苦は五蘊(ごうん)がまだ残っていますからね。身余依涅槃は最も高い段階の解脱なのです、苦が完全に消えた境地なのです。私達が「涅槃に到達した」と呼んでいるのは。本当はanupādisesa-nibbāna 無余依涅槃(むよえねはん)**と言います。これは涅槃に入って肉体も残っていない事を言います。肉体が尽きる事なのです、肉体が消えることで苦が滅する事なのです。涅槃は肉体はまだありますが心は体に依存していないのです、心は苦から解脱しているのです。つまり涅槃は2種類あるのです。肉体が残っている状態の涅槃と、肉体が尽きる涅槃です。私達はまず阿羅漢達が到達した肉体が残っている状態の方の涅槃を目指さなければなりません。心は肉体に依存していますがそれが尽きることです。ルーパ(色蘊)*は私たちの肉体の事ですね。ウェーダナ(受蘊)は苦、楽、不苦不楽の感覚を感じる事です。サンナー(想蘊)は覚えていることと知っていることです。この2つは別のものですよ。「覚えていること」と「知っていること」は別のことなのです。しかしまだそんなに頑張って勉強しなくても大丈夫です。勉強しすぎると頭がくらくらしますからね。サンナー(想蘊)は理解が難しいのです。もしも間違って理解してしまうとおかしな事になってしまいます。サンカーラ(行蘊)、善き行為、悪行為、善行為でなくなること、悪行為ではなくなること。身体から離脱してくことです。ヴィンニャー識蘊(しきうん)は眼・耳・鼻・舌・身・識で生滅する心です。これらは握りしめなくていいですよ。見る時には見ると知る、聞くときには聞くと知る、匂いを嗅ぐ時には嗅いでいると知る。味を味わっていると知る。身体に触れた時、身体に触れたと知る。心に感情が起こった時、感情が起こったと知る。これらにはまり込むのではありませんよ。もしもこのようにできるのであれば、もはや苦はありませんよ。苦という感覚は、五蘊にあります。私たちの肉体や心に苦があるわけではないのです。心は苦から脱しているのです。しかし六門****により生滅する心はまだ苦として残っています。06:53-10:00 (③へ続く)


*sanupādisesa-nibbāna 有身余依涅槃(うよえねはん) สอุปาทิสสนิพพานサウッパティセーッ・ニッパーン(タイ語)

**anupādisesa-nibbāna  無余依涅槃(むよえねはん)  อุปาทิสสนิพพาน  アヌッパティセーッ・ニッパーン(タイ語)

有身余依涅槃と無身余依涅槃の解説

***五蘊(ごうん) pañca-kkhandha  色受想行識(しきじゅそうぎょうしき) 色蘊(しきうん)rupa ルーパ・受蘊(じゅうん)vedanaヴェーダナー・想蘊(そううん) sannaサンナー・行蘊(ぎょううん) sankharaサンカーラ ・識蘊(しきうん)vinnana ヴィンニャー

****六門 眼・耳・鼻・舌・身・意の6つの感覚器官

【参考文献】 

大念処経 アルボッムレ・スマナサーラ長老 サンガ出版


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