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ルアンポー・プラモート師(気づきと智慧で渇愛に打ち勝つ)2020.9月6日①

 ダンマは聞いているだけではだめですよ。修行しなければいけません。もし徳を積みたいだけであっても修行の一つです。苦を少なくしたいというのも修行の一つです。本当に苦から逃れたいのであればそれよりももっと真剣に修行をしなればなりません。ある人は私(ルアンポー)の話を聞きにくればある日、金言が聞こえてくる、何かふさわしい言葉を飾って語ってくれる「ぱっ」と聞いて「ぽっ」とわかる。修行しなくても良いと、、しかし、、そんなでたらめなことは起こりません。業の法則を超えていくことは何者にもできません。修行するという事でさえ業の法則の下にあるのです。誰がどんなことをしてもその業の結果は出るのです。お寺に来て何かの喜捨をすれば喜捨の徳を得るという結果があるのです。戒を守るぞと決心してお寺に来るならば、戒の結果として徳を得るでしょう。良い事を期待してお寺に来て瞑想をするならばまたそれも同じでしょう。幸福を感じて心の静寂を感じるでしょう。涅槃へ逃れる道を望むのであれば真剣に修行をしなければなりません。しかし修行しては辞め、修行してはまた辞めて時間があればぐずぐずとサボってしまう。苦から逃れる道の終わりに到達したわけでもないのに。

 もしも私達が何か欲しいと思ったらまず自分の為に先にやってしまいますね。このお寺に何の為に来るのでしょうか?ある人は恋人を探しに来ます。ある女達は男を探しに来ます。時々、お坊さんを見る為に来ることもあります。あのお坊さんは顔がカッコいいとかですね。ある男達は女を探しに来ます、女を選ぶんですね。これは、”お寺に嫁を探し来る”とむかしから偉い先生方は(良い事では無いという意味を込めて)呼んでいますよ。実際そういう風にカップルになる人もいるでしょう。しかしこれは何なのでしょうかね、、、浅すぎる。こんなことよりもお釈迦様の教えの方良い、はるかに優れています。お寺に宝くじの当たりそうな数字、番号を見つけに来る*。幸福になるかどうか心配になる、裕福になれるかどうか心配になる。食い扶持を得ることを面倒に思ってどうして裕福になるのでしょうか?賭け事で裕福になる事を期待する。もし数学が得意ならば、賭け事はオーナーが利益を得る仕組みである事がわかると思います。お寺に宝くじ(の運を)探しに来る、(運の良い)数字を探しに来る。その様なことはあまり効果はありません。恋人を探しに来る、あるいは亡くなった親族の為にタンブン**(徳を積む)に来る。死んだ人に向けて廻向(えこう)する。ある人は功徳を受け取ったり受け取らなかったりするでしょう、それは彼らの状態に依ります。もしも餓鬼に生まれ替わって人間に近い姿だとしたらその功徳を受け取ることができますが、犬に生まれたとしたらそういうものは受取らないでしょう、功徳をあげることは出来ないのです。人間に生まれたら赤ちゃんに生まれて「オギャー」と泣いているだけでしょう、私たちが功徳を廻向しても届かないのです。受け取ることができる次元では無いのです。あるいは地獄に行ったとしたならばそれもまた受け取る事は出来ないのです。神々のところ、あるいは梵天のところに生まれたならば、私達が功徳を届けるには次元が高すぎます。神々や梵天に私達のアヌモータナー***の功徳を届ける事はできますが、彼らは自分で功徳を生み出すこともできるのです。そういうわけで私たちが死んだ人に廻向しても功徳が届くかどうかはわかりません。届いたり届かなかったりするでしょう。しかし確実に功徳が得られるのは廻向した私達なのです。タンブンをした時から自分は功徳を受けるのです。喜捨しようと思った時から功徳が得られるのです。そう思っている間にも功徳が得られるのです。タンブンが終わって満足感を思い出しても功徳が得られるのです。功徳が必ず得られるのは私達なのです、亡くなった人が功徳を受け取れるかどうかはわからないのです。お坊さんは郵便配達員ではありませんKerry(宅急便)****ではありません、受け取って配達することは出来ないのです。ある人々は失恋してお寺に来て、座って瞑想して読経してお坊さんに合掌して、暫くすると心がすっきりして満足して家に帰ります。“心がすっきりした”という事だけを得ることはできます。しかし、ルアンポー(私)のところに来た人は、お釈迦様の教えは私達にタンブンや喜捨だけすれば良いとは教えていません。ただ五戒を守る事、ただ瞑想だけする事、心が落ち着く事だけを教えているわけではありません。私達は仏教徒として生まれて来たのにやるべき事をしていないのです。私達が本当にすべき事しと生きようとするのならば、お釈迦様の本当の教えを本当に学ばなければならないのです。お釈迦様の教えは私達に明確な意図を示しています。それは苦から逃れる為なのです。苦が完全に消える場所に行く為なのです、明確な意図を持った言葉なのです。”苦が完全に消える場所”です。00:01-06:52(②へ続く)


*タイでは宝くじが市民の間で非常に浸透しており、なにか運命的なものを感じた番号を買うと宝くじが当たると信じている人も多い。例えばお寺で見かけた番号や交通事故にあった車の番号の宝くじを買うと当たるという迷信を信じてる人も多い

**タンブン 徳を積む行為のタイ語 お布施をしたり人助けをしたり善行為をして徳を積む事であるが、タンブン=お寺に来て喜捨をする事と一般的には認識されている

***アヌモータナ Anumodana 随喜(ずいき)

****Kerry タイで流通してる宅急業者名 日本でいうクロネコヤマトや日通の宅配業者




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