躁鬱病が治った話

私、アンナさんは中学2年生の頃鬱病を発症し、18歳の頃には躁鬱病(双極性障害)と診断を受けた。

性格が明るいか暗いか、ポジティブかネガティブか、それらは鬱病になるならないに関わらない。ちなみに私は活発でポジティブで容姿端麗であった。(容姿は尚更関係ない)そんな私が鬱病になってから、躁鬱病になり、巷では治らないと言われているこの病気が治るまでの話をしていこうと思う。一昨日iPadが届いたので試し書き。普段はAndroidユーザーなので初めてのApple社製品にワクワクしながらキーボードを打つ。

アンナさんとキリスト教

今回の話とキリスト教に何の関係があるのかと思われるかもしれないが、私が美人であることが鬱病とは全く関係ないのに対し、キリスト教であることは大いに関係あるのだ。そろそろ美人を自称すると読み進めてもらえなさそうだからやめよう。

私は12歳の頃に韓国に留学し1年遅れで学校に通っていた。
元々クリスチャンだった母にイエス様の話(福音*)を聞いて、そのまま信じて教会に通うことになった。

 *全ての人は罪人である。罪の報酬は死である。死なねばならない私たちの代わり
  に、私たちの過去、現在、未来の罪を赦すためにイエス様が十字架にかかって死な
  れ、3日目に復活された。

元々活発で明るい性格だったが、他国で言葉が通じないために自信を失くし、人と話すことがあまり得意ではなくなってしまっていた。人前で何かを発表するとなると震えてしまい声を出すのも難しかった。あがり症ってやつ。

アンナさんIN韓国

当時小学校の自分のクラスではいじめが発生しており、その子を無視したりする雰囲気だったが、その雰囲気を無視してその子にも話しかけたりしたところ私もいじめの対象になってしまった。その子以外に仲良くしてくれていた子も離れていってしまい、とても辛かった記憶がある。普段の表情も曇りがちになり、私の表情を見て「なんで怒ってるの?怖い」とよく言われてそれが結構なストレスであった。
「怒ってないよ!」と強めに返して「いや、やっぱり怒ってるじゃん」と言われるまでがセットである。

鬱病になったのはもう少し後だけれどこの辺りからすでになりそうな兆しはあったのかもしれない。

学校、テコンドーの道場、教会の中で一番居心地がいいのは教会だった。
家はワンルームで母、弟、私の3人暮らしだったので1人の時間がない。それは戸建てに住んでいた私にとっては最悪の物件である。自分の部屋が恋しかった。

歌が好きで、教会での説教や聖書朗読は何言ってるか全然わからなかったが、讃美歌の時間だけは楽しく過ごせていた。お祈りもそれなりにはしていたと思う。
時間帯が朝なのでそこがめんどくさいポイントであったが毎週きちんと通っていた。

中学に上がり、やっと自分の部屋のある間取りの家に引っ越し、新しい環境で気分はウハウハかと思いきや思わぬギャップに躓いてしまう。

だんだんと伝道師の説教にも慣れてきて、自分も神様の言葉を守りながら生きていきたいと思うようになってきていた私は、思春期の子たちの言葉遣いや下ネタについていくことができず孤立してしまった。そんな私が唯一人気者になれる時間は日本語のテスト後である。私と言うより私の回答用紙が大人気であった。か、書いてて悲しくなってきた!

この時に聖書の知識がもっとあればと思ったが相変わらず人付き合いは苦手だったので聖書勉強会などにも参加せずで、祈りで乗り越えるとかはできずに飲み込まれていった。学校のカウンセラーにやってみてと渡されたアンケート用紙のスコアが高かった。抑鬱状態であるとのこと。なんだかショックであった。自分がそんなことになるなんて想像してなかった。そのショックからかどんどん状態が悪くなっていき、教会に行っても学校に行っても項垂れていることが多くなった。人と関わるのはますます難しかったし、意味もなく涙が溢れ出たりして自分でもどうしようもなくなっていた。

そんな状態になっても、母に心配されたくなくて病院に行くことは断っていた。心配されたくなかったと言うよりも「そんなに辛いなら病院に行く!?」とキレ気味に聞かれるので何となく悪いことのような気がして行きたいと言えなかったが正しい。

中学2年の途中で転校し、そこでも馴染めなったり、母が詐欺にあい多額の借金を負い自分の身体を売って金を稼いだり、家族全員バラバラでみんな一人暮らししていたり、お金がなくてご飯がほとんど食べれなかったり、いつの間にか両親が離婚していたり、色々あって私は限界だった。弟曰く、この頃の私は画用紙に突然ボールペンでぐるぐると線を延々と描き続ける奇行をしていたらしい。言われて思い出したが決してわざとではない。しかしそれをしたからといって特に何かが解決したわけでもない。私は学校の放課後に涙を流して祈りながら帰るという日常を送っていた。「いつも喜びます。辛いけど、喜びます。」

そんな生活も1年ほどで終わる。日本に帰ることになったからだ。
日本なら好きなアニメもリアルタイムで見れるし、夢だった声優も目指せる!地獄から抜け出せる!とその時は思っていたのだがその考えは甘かった。

アンナさんIN日本

祖父母の家で暮らすことになった私は、寝たきりのおじいちゃんと認知症のおばあちゃんを相手にする日々を送る。突然の介護生活に早々くたびれた。
しかも高校に編入しようと思ったら中学校卒業の資格がないため、中学校卒業程度認定試験を受けて高校受験をして入学しなければならなかった。もはやそこまでして学校に通いたくはなかったが父に許可されず、、、。

私の父が許可してくれなかったこと、学校に行かずに働くこと、声優になること、病院に通うこと。入学前にアルバイトを始めたので人見知りは改善されたが生きていくモチベーションが不足していた。

父と私はちょうど思春期の時期に離れて暮らしていたのでお互いにすれ違うことが多かった。父が心配で言ってくれていたことも私は命令、束縛に感じてしまいいつしか勝手に父の思い通りに動かないとダメなんだと、父に意見することを諦め何でもはい、はいと返事して、返事だけしてやり過ごすことも多くなっていた。父からしたら娘から軽んじられ嘘をつかれていると思ったであろうから尚更怒るようになり、私は怒られることに対して尚更心を閉ざしていった。

祖父は私が来て半年ほどで亡くなり、祖母は父の家に引っ越したので私は当時付き合っていた彼氏とその家で同棲することになった。16歳のエピソード。近頃の若者って感じ。

17歳の秋、中学卒業程度認定試験の結果を母に報告しようと電話をかけていたが出ず、その年のクリスマスイブに母が亡くなったという知らせが母の携帯から届いた。
その日の夜は枕を涙で選択できるくらい泣いた。

18歳になる年の春、なんとか学校には無事に入学し、1年の前期はそれなりに頑張って通ったがそれ以降不登校気味になり2年の頃には単位を全て落とした。私のちょっとした伝説(笑)

舞台女優と学業、バイトの両立は難しかった。無理だった。
高校のカウンセラーさんに病院に行った方がいいと言われて、内科で紹介状を書いてもらい初めて病院を受診。その時に双極性障害だと診断された。

学校に入学する少し前から日本でも教会を探して通っていたのだが入学してからは通うのを辞めてしまったので祈るとか聖書読むとかもしなかった。お腹痛い時だけ祈った。あれはきつい。

父には内緒にしなければならないと思いながら病院に通い(バレて怒られた)、彼氏とは別れひとり暮らしになったので食費やら何やらは自分で稼がなければいけないのでバイトもし、学校にも通い、舞台にも出演し、家計は火の車、精神状態はボロボロになってしまった。何度も遺書を書いては破いた。病院の薬は飲んだり飲まなかったりで症状は悪化していき、病院にも規則的には通わなくなっていた。

そんなこんなで出来がったのが高慢モンスターである。

高慢モンスターアンナさん

周りの人は嫌な人ばかりではなかった。掲示板で誹謗中傷されたり、舞台関係者に謎の脅しメッセージがきたり大変なことはあれど、そんな私を哀れに思い優しく手を差し伸べてくれる人も中には居たのであった。

しかし、私はそのことがいかにありがたいことなのかを考えず、むしろ自分が大変なのだから助けられて当然だと思っていたし、心配して言ってくれていることも自分にとって的外れだと頼んでもないのにアドバイスなんかしてきてむかつくとさえ思っていた。

病気になんてなりたくなかったはずなのに、病気なんだからしょうがないと自分の中で病気であることがステータスのようになっていた。いつしか双極性障害が自分のアイデンティティになっていた。

掲示板の人たちは私がその人たちに直接何かをしたわけではないのに私を中傷してくるのに対してなんて奴らだと思っていたが、私は自分に良くしてくれていた人たちに対して口では感謝していたが実際は助けてくれることに甘えて当たり前に思い、相手が苦言を呈してきたら怒りに燃えるという、、、私こそ、その人たちにとってなんて奴!だった。

爪で腕を引っ掻いた痕がお酒を飲むとミミズのように腫れ上がった。
なんで自分はこんな人間になってしまったのだろうか、自分は一体誰に許して欲しいのだろうか、と考える日々。弁明ではないけれど、実は人に対してそんなことをしてしまう自分が嫌いだった。そんなことと思うくらい、酷いことをしてしまったという自覚はあったし、直したいと思っていたのに繰り返してしまう自分が嫌いだった。

高校4年生、ラスト1年。21歳で行きつけの飲み屋があったりしたが一番の行きつけは学校付近の踏切だった。死にたかった。できれば痛みを感じず、一瞬で、、いっそ無差別に殺人して死刑にでもなるのが楽だろうかなんてことも考えた。人は壊れてしまうとどこまでも狂った考えに陥ってしまう。書いていて恐ろしいことを考えていたのだなと過去の自分に恐怖を覚える。何度も首を吊っては失敗を繰り返した。警察を呼ばれたりもした。父も私がそんな状態なのは知っていたが、甘やかしてはよくないと思ったのか厳しく接した。学校も仕事も辞めることはできず、やっとの思いで卒業した。

アンナさん、4年ぶりに教会へ

高校4年生の時に適当に選択した科目の先生がクリスチャンだった。ラインの背景に見慣れた神様がいたので卒業後こちらからコンタクトをとった。すると市内の教会に通っているらしく、私も久々に教会に行こうと思い一緒に行くことになった。

初めて訪れたはずの教会なのに胸の中は懐かしさでいっぱいに。神様が呼んでくださったんだなと実感した。精神的に行くのが難しい日もあったがぼちぼち通った。
そのうち洗礼のための勉強会もするようになった。当時洗礼を受ける気はなくご飯が出るとのことで、1日1食しか食べれない金銭状況だった私は勉強会に参加することになった。

その後父と縁を切って家出したり、彼氏が新しく出来て同棲し始めたり、その彼氏を教会に連れていったら福音を受け入れて救われたり色々あった。

礼拝中の私の姿は真面目な方だった。ノートに一生懸命メモを取っていた。
しかしその日のうちに忘れて、その後も覚えていることがなかった。
それなりに聞いて祈りもしていた。しかしある日の説教を境に私に変化が訪れる。

霊的傲慢に気をつけよう

その日の説教タイトルである。教会に通い始めて半年くらい経った時の頃だった。
彼氏と一緒に来始めていたので今まで韓国部で捧げていた礼拝を日本語で聞くようになっていた。牧師先生は韓国人なので個人的にはカタコトの日本語よりも韓国語で聞く方が良かった。しかしその日は驚くほど心に響いたというか、集中して聞けた。

説教を聞きながら自分って傲慢だったなと悟った。信仰を持って10年以上にはなるが毎週教会に来たり祈ったりし始めたのはここ最近のことなのに人の悪口や愚痴が多かった。当時は彼氏とも喧嘩することが多くそのことも思い浮かべて、自分も完璧ではないのにそれを棚に上げて相手を否定していたのだなと、相手に完璧を強要していて、それは間違いだったのだなと改めて自覚した。

神様に出会うタイミングや、本当の意味で信じるに至るまでの期間が人によって違うように、恋人や夫婦も互いの意見を、主張を通したい時があるだろうけれども、直して欲しいところを伝えても言われた瞬間みんなが直せるわけではないということを思った。
罪を犯していない人間など自分を含めていない。罪は神様が嫌うことなのに、毎日のように罪を犯している私を神様が愛してくださっているんだと悟った。思い出した。

私はこの日、私も神様のように人を許し、愛したいと思い、そう思わせてくださった神様に感謝した。その時のメモにはこう書いてあった。

完璧にできなくても神様を見習い背中を追い続ける人生はきっときっと私や私の周りを幸せにしてくれると信じてる。

アンナさんのメモ

いつの間にか

それからというもの、毎週気づきがあり悔い改めに導かれた。
生きていて、イエス様に出会えたことで満足です。そう心から思うようになっていた。
環境や人間関係、経済面、あらゆる不満が消えていった。

週一でしか読んでなかった聖書が突然面白く感じて一日中読んでいたら運命の聖句に出会った。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」   マタイによる福音書6:34

えー!そっか!悩まなくていいんだ!というか悩むなって言われてる!じゃあ従おう!
そう思いそのまま神様にお祈りした。素直な祈りも聖霊の働きに違いない。アーメン。

感謝なことが沢山ある。生きていることに感謝なんだ。

日々感謝を数えているうちに、私の病気はどこかに行っていた。
治って1年以上経つ。妊娠も出産も経験したがマタニティブルーや産後うつとは無縁である。治ったことを信用されなかったり、そもそも病気じゃなかったのではと疑われることもあるが関係ない。私はそのことで神様に感謝しているのだから。

今日も生きたいと思って生きている。生かされている。
主の尽きない恵みに感謝します。読んでくれた方にも主の恵みと平安があるように。アーメン。

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