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インドネシア滞在記⑦初めて泣いた日

 大人になって悔しかったり悲しくて泣くことはあっても、声を出してワンワン泣いたのは一体いつぶりだっただろうか。

 留学することが決まってから、私はボゴール農科大学(通称IPB)の留学生センターのラハディアン(Pak Rahadian)という担当者とやり取りをしながら入学のための書類や、ビザ取得に向けて準備を始めた。インドネシアは30日以内の観光なら到着時に空港でアライバルビザというものを購入すればいいだけなのだが、留学の場合は長期滞在用のビザが必要だった。その手続きがかなり面倒だし時間がかかるとは噂に聞いていたものの、とにかく待てど暮らせど大使館から連絡がこない。ラハディアンにメールをしても全然返ってこないし、ビザが下りないまま出国の日だけがどんどん近づいてきて、私はだんだん不安になってきた。
 いよいよもう限界というところで、インドネシア語のできる先輩に頼み込んで、直接電話で確認してもらったところ、私のビザ取得の手続きを丸っと忘れていた上に送った書類も全てなくしていたことがわかった。絶対に確信犯だし、何回も何回もメールしたのに、見て見ぬふりをしていたに違いない。絶望という2文字が頭をよぎり、出国前から怪しい雲行きが立ち込めていた。
 結局観光用のビザで一旦入国してから、現地でKITASという長期滞在ビザに切り替えましょうという提案によってなんとか入国できたものの、この一連の手続きミスによって、私には早速「KITAS取得」という第一の難関が待ち受けていた。
 インドネシアに着いてから1週間ほどたったころ私は留学生センターを訪れ、遂にラハディアンと対面した。30代くらいの目のぐりぐりした男性で、仕事は全然してくれないくせにいつもニヤニヤしていて、人当たりだけはよかった。KITAS取得のための手続きはかなり複雑で、まずは一度ジャカルタにある日本大使館に行く必要があるということをラハディアンから伝えられ、インドネシア語もままならない私は、到着早々はるばるジャカルタの日本大使館まで一人で初めてのおつかいに行くことになった。その時はまだスマホもなくネット環境もなかったので、教えてもらった行き方をメモし、ジャカルタの紙の地図と地球の歩き方を片手にアンコットと電車とトランスジャカルタというバスを乗り継いで、なんとかかんとか任務を達成したが、ものすごく時間がかかってしまい大使館を出るころには緊張と暑さと疲労で倒れそうだった。
 ボゴールの夜は治安が悪く、夜の6時以降はキャンパスの外に出てはいけないよと強く言われていたのに案の定ボゴールの街に着いたのは夜の8時を回っていて、辺りはすでに暗く、アンコット乗り場にもお客さんは誰もおらず閑散としていた。何とかキャンパス行のアンコットを見つけて乗り込んだが、他にお客さんがいないので一向に出発してくれない。そうこうしていると運転手の兄ちゃんに助手席に乗るように呼びかけられ、「日本人?かわいいね」とか「家はどこ」とか「このまま遊びに行こうよ、連れて行ってあげるよ」といったようなことを言い始めて車を発車させたので、これはいよいよ真剣にやばいぞと焦った私は、「バイクタクシーで帰るから降りたい」と片言で伝えた。すると運転手はいきなり態度を豹変させて、私の体を強く抑えて「絶対に降りるな!」と叫んだ。もうそこからはあんまり覚えていないが、とにかく扉を蹴り飛ばして転がるように走って逃げた。とにかく走って走って、たまたま見つけたバイクタクシーのおじさんに「IPBに帰りたい」と泣きながら懇願した。バイクが無事に家の前に着いたとき、私は財布の中にあったお金を全部そのおじさんに渡して家の中に転がり込んだ。
 パルムティガの家の中ではニルマラとフィフィという同居人がのんびりご飯を食べていて「アン、遅かったね!どこに行っていたの?」と玄関に出てきたが汗と涙でぐちゃぐちゃで、すごい形相の私を見て何かあったことを察して、ものすごく心配していた。
わたしはさっきあった恐ろしい出来事や、一人でジャカルタまで行って帰ってきてものすごく不安だったこととか、生きて戻ってこれて2人に会えて安心したこととか色んなことを沢山伝えたかったのに全然インドネシア語も出てこなくてうまく伝えられないし、いい加減なラハディアンにも柄の悪いアンコットの運転手にも心底嫌気がさしていて、3つも年下のニルマラとフィフィの温かい腕の中で緊張の糸が切れて嗚咽しながらワンワン泣いた。

 散々な目にはあったが、そのおかげでいいこともあった。この事件以降、一人で行動しなくてもいいようにと、アンコットに乗る時や家までの帰り道も学部の友達が入れ替わり立ち替わり一緒について来てくれるようになった。そこまでしてもらうのはちょっと申し訳なかったけれど、その日から私のボゴールでの生活は全然さみしくなくなった。




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