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「やりたいことをやる」についての考察

やりたいことをやるべきだ、とよく言われる。はなはだ最もである。

でも、自分のやりたいことって何だろう?なんとなく好きなことはあるけれど、これは本当に「やりたいこと」なのだろうか?

こういう疑問を持っている人は多いのではないか。俺もそう思っていた。しかし長い疑問の期間を経て、この問題に解決の光が差してきたので、共有したいと思う。

基本的な欲求が満たされているか?

「やりたいこと」とはすなわち「欲求」と言い換えられそうだ。
よって、まずは人間の欲求は何があるか考えてみよう。

こういう時によく出るのが、マズローの欲求段階説だ。欲求は階層化されていて、下から生理的欲求(三大欲求&排泄欲など)、安全欲求、社会的欲求(他人との繋がり)、承認欲求、自己実現欲求となっている。
この説の正誤は一旦保留するとして、ここで整理されている欲求がある程度人間一般に共通しているものだということは、直感的に賛同してもらえるのではないだろうか。

ご飯を食べたいとかぐっすり眠りたいとか、友達が欲しいとか、そういうことも欲求=やりたいこと、なのであって、いわゆる趣味や資格の勉強などの「高尚な」こと(マズローで説で言うところの「上の」欲求)だけが「やりたいこと」とは限らない。
翻って自分で考えてみると、恥ずかしい話(匿名だから実は恥ずかしくないのだが)性欲の解消が最も大きな「やりたいこと」である。経済的に困窮しているわけではなく、友人もそこそこおり、自分の能力を発揮する場所もある。ただ悲しいことに女性関係に疎く、性欲を持て余している。

俺は「やりたいこと」を考えるうえで、そこをまず自覚した。性欲の解消などとおおっぴらに言うことはできないけれども、自分の中で思うだけなら問題はない。
こういった風に、意外と単純な欲求が自分の「やりたいこと」の可能性はないだろうか?

やるべきことと混同していないか?

次に考えたのは、世間的な評価とか、他人から見てまともであるような事が「やりたいこと」だと思い込んでいないか?ということである。
将来お金になるとか、SNSにあげられるとか、友達に話せるとか、そういう所を無意識に判断材料の一つにしていないだろうか?
社会から、他人から認められることも真っ当な欲求の一つだ。そのために、他人から認められるような、他人から見て変ではないことをしたいと思うのも至極当然である。

しかし、往々にして私たちの「やりたいこと」は非生産的で、非建設的で、非合理的ではないだろうか?
学童でアルバイトをしているから子供と接する機会が多いのだが、子供というのは全く不可解なものである。技能も何も必要ない単純なカードゲームを延々続けるし、校庭の植物をむしっては捨て、むしっては捨てる。はたから見ていると何が楽しいのだろうと思うが、私たちも成長するにつれて社会に適合していっただけで、その「他人から見て不可解な欲求」は依然として持ち続けているように思う。

もちろん子供の時よりは生産的で、建設的で、合理的なことを楽しいと思うだろう。しかし、自分のやりたいはずのことを自分が思う以上に、生産的で、建設的で、合理的にする必要はないのだ。
例えば、俺は文章を書くのが好きだ。毎日暇さえあればWordファイルに文章を書いている。しかし誰に見せるわけでもない。後から見返すわけでもない。まったく生産性が低いし非合理的である。
しかし、それはそれのままでいい、ということだ。無理に小説を書いてみようとか、毎日何文字以上書くことをノルマにしようとか、そういう風に「やりたいこと」を「人に見せられる」形に仕上げる必要はないのである。

やるべきことがやりたいことでもいい。

ここで問題が一つ生じる。やりたい事とやるべき事の区別はそれほど明確にはつけられない、ということだ。

例えば俺はもっと思考の馬力を上げるために、今まで以上に読書に励みたいと思っている。しかし、それは「やりたいこと」とも捉えられるし、「やるべきこと」とも捉えられよう。自分の成長のために「やるべきこと」なのだと。そういう風に感じているのも確かである。

先ほど「やりたいこと」は非生産的で、非建設的で、非合理的で構わないと書いたが、逆に生産的・建設的・合理的なことが「やりたいこと」の位置に来たので、不信感を覚えてしまったのである。

「やりたいこと」と「やるべきこと」の線引きは曖昧である。それで構わないと思う。

先ほどの内容と合わせると、
「やりたいこと」と「やるべきこと」というのはあまり明確に分かれているわけではないけれども、「やるべきこと」が「やりたいこと」の方に境界侵犯していることが多いから、「やるべきこと」に自分の意識が奪われていないか改めて問い直す必要がある
ということになる。

ここまでのことで、冒頭に出した問いを分析できる。
・自分のやりたいことって何だろう?
→やりたいことがあるけれども、それは客観的に見て「意味があること」でなければいけないという先入観のせいで、意味のなさそうな、でもやりたいことから無意識に目を背けている。

・なんとなく好きなことはあるけれど、これは本当に「やりたいこと」なのだろうか?
→自分の好きなことが客観的に見て意味を持たないような感じがするから、それを「やりたいこと」と断言できない。断言するのが不安である。

私はこれでかなりスッキリしたのだが、皆さんはどうだろうか?

どうやって社会に適応するかという問い

こう考えていくと、「やりたいこと」に関して私たちを悩ませているのは、「どう社会と適応するか」という問いである。

若いうちは非合理的なことをしていても構わない。俺で言えばずっとwordに文章を書き続ける生活をしていてもいい。しかし、それではお金が稼げないし、社会的な立場が築けず、他人との交流もできない。だから年を経るにつれて、自分のやりたいことを社会と適応させていかなければいけない。これは仕方のないことである。

その上で、現代は先が見えすぎる。今勉強しなければ、今資格を取らなければ、今努力しなければ、将来が全く暗いものになってしまうのではないかという不安が容易にできるほどに、情報が溢れているのである。

それに、SNSの発達も相まって人間の社会動物化がさらに進行している。周りから見ておかしなこと、変わったことをするのは、若い人ほど大きな勇気を必要とする。

だから、「やりたいこと」が純粋な「やりたいこと」ではなくて、高尚なものでなければとか、人から見ておかしなものでなければ、と考えてしまうのである。

そこを一旦壊してみないか、というのが俺からの提案だ。

確かに自分の今「やりたいこと」は成長性に欠けるかもしれない。客観的に見たらおかしなことかもしれない。それでも、自分が胸の底から「やりたい」と思うことを掴むまでは、「やりたいこと」が見つからないという苦しみはずっと続くだろう。

いずれは社会に適応べきだ。でも、今は勇気を出して、自分の「やりたいこと」をやってみよう。


そういうわけで、俺は思い付きで雑誌を買って2ページ読んで捨てた。
まったく非生産的の極みだ。






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