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「天使の梯子」の批評活動のはじめに

 それは天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子である。
                        ―――――芥川龍之介

「梯子」と言われるとどうしても思いあたるふしがある。芥川龍之介最晩年の作「西方の人」の中にある、筆頭の一文である。
この一文はその前後の内容やこの天才作家の顛末とも相まってその後様々に解釈され、誤植であるとか、書き損じであるとかそうでないとか、どうやら今日まで議論の種になって結論も出ないようであるらしいけれども、私はこの一文が仮に誤謬でもそうでないにしても、文字の瓦礫をよじ登って行くような可能性としての言葉の薄明を感じる。

「天上から地上」という昇降の曖昧。「登る」という表現の矛盾。その為に「無残にも折れた」という因果関係の不一致。
誰が、何の為に。その行為によって梯子は折れたのか。その行為をするために折れているのか。登ったからなのか。これから登るのか。天と地の希望的とも思える交通が、何故に無残なのか。そして無残とは書かれていながらも、やはりそこには希望的な光が感じられるように思うのは、何故か。

そういう公案を自ら去来させながらこの一文を鑑賞してみると、他者の書かれたものがもう一度自らの内側で足場を組みはじめるような気がする。あるいはそれはどこかを目指しているらしい。目的があるらしい。そこにまた物語も生まれるらしい。
まず私は誠に勝手な感性ながら、文を読む行為にはそもそも仮定されていた設計が済し崩しにされるような、〈言葉の梯子〉の批評性がありはしまいかと思った。冒頭の一文を前後の文脈を考慮せずに引き抜いたのは〈その為〉である。

批評という行為には、それが作品への登頂というわけではないにしても、作者から離れたものが読者の言葉によってもう一度積み重なっていくその過程には、言葉の世界における新しい座標軸の契機がそこにあるのではないだろうか。その過程自体が、より高みを目指してはいないか。それは天上も地上もない、上下左右もない、そういう世界ではあるが、光が洩れている方がその目指すべき方向であるらしく、読む方も読まれる方も、その光がお互い顔に反射して見えるようなときには、いわゆる充実した経験となるのではないだろうか。

同人誌を主宰していた頃、同人同士で作品を厳しくビシバシ批評したことがあった。自分の作品に強い意見が加えられて消沈するようなこともあった。その時の記憶が思い出される。しかしその記憶は、今となってはかえって輝かしくもあるのである。それはお互いと作品の座標が直線的に繋がって、そこにまた創造的な光が射し込んで、その入射角がちょうど自分の顔に反射して眩しいことに気づかされたからだと思う。

「天使」という語彙にも、私にはある風景が記憶されている。
どこか薄暗い独文研究室に「アンゲルス・ノーヴス」という青い表紙の学科機関誌が置いてあった。学生時代の私は、徐に手を伸ばした。ドイツ語で〈新しい天使〉という意味である。

その冊子には、学部生や院生の論考や研究成果が粒だって、余白たっぷりに並べられていたと記憶している。何かをきっかけにその薄い本を手に取った私は、大学に入るために上京したてであったこともあり、まるで未知の世界が凝ったような冷たさを感じた。そこで読んだ文章は、まだまだ自分の文字情報の範疇には、語彙にしても構成にしても、全く経験としてないものだったのである。
その後独文科に進学した私は、この本の題名がドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンの散文「歴史の概念について」に因んだものだと知り、そこで取り上げられているのが〈新しい天使〉という絵であることを知り、それがパウル・クレーの絵であることを知り、このスイスの画家には可愛らしい描線ながらもどこか危うさもある天使の絵の連作があることも知った。

新しい天使と題されたクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見つめている何かから、今まさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。
              ―――――W・ベンヤミン(浅井健一郎訳)

ただそれだけの記憶であるが、あの一冊の青い本が、その後クレーの図録でも見た天使と絵とも相まって私には特別なものとして今も残っている。なぜならば私自身が、自分の作品を実際に読んでもらって感想をもらったはじめての記憶が大学時分のとある創作演習の授業であったからであり、それらの時期と私の蒙昧と拙いドイツ語とが、まるで薄い重ね絵のようになって同じ函の中に記憶されているからである。
その時に学生仲間からもらった感想の数々は、自分の作品が違う感性で、違う言葉で表されるということの、いわば批評の原風景となっている。そしてその時に味わった甘さと嬉しさとが、いまも幾つかの天使の絵の連作と重なり合いながら青みがかって呼び起こされるのである。「天使」という語彙も、作用していると思う。たしかにいま振り返ると、それら選ばれた言葉たちは、他国に失礼のないように、あるいは土地を荒らさないように、着陸することをしないための翼つきで〈派遣された言葉たち〉であった。

賞賛することを念頭に置いているわけではない、しかし傷つけないことを気遣かわれた言葉たちには、創作を許された世界における、守られた世界の優しさがある。私はそれまでその優しさを知らなかったので、あの日感想を下さったもうお互いに名前も知らない同窓生たちには、何とお礼を言って良いかわからない。それはそのくらい重要な経験であった。
本当は、私は、いまもあの日の甘味が忘れられずに、目を見開きながら、口をあけながら、翼があると思い込んでいる両の手をばっさりと拡げながら、ただその一点を見つめながら年を重ねているのかもしれない。刻一刻と遠ざかる記憶に固執しながら、ただただ積み重なる言葉の瓦礫さえどうしようも出来ないままに。

「天使の梯子」とは、グループのひとりが考案し命名してくれたもので、それは雲の切れ間から太陽の光が柱となって放射状に見える現象のことをいう。創作者にとって、そういう光のような存在になりたいという願いが込められている。
恥ずかしながら、私はこの呼び名を知らなかった。だからこのグループ名を聞いてから、必死に自分なりにその言葉の放つ「光芒」を捉えようとしてみた。それが芥川の「梯子」であり、クレーの「天使」である。そして自らの持つ批評の記憶の厳しさと甘さとをそれぞれに代表させてみて再び批評の風景を思い起こそうとしたのが、この文章である。

しかしこうして並べて見ると、「天使の梯子」とは、実はこれこそ批評の作用の持つ陰翳を捉えているような言葉であると思えてくる。それは偶に遠くから見ることは出来るが、もちろん容易に辿り着けるものではない。現象でありながら現実的ではない。天上がより多く塞がれていることが条件でありながら、やはりそれは見る者に希望的な印象を与える。
創作作品は、基本的には過去の一点に留まっているものだと思う。それでも読者がいる限り常に揺さぶられているから、行間の誤謬からは常に新しい梯子が洩れる。天使も羽根を覗かせる。そういう世界でこそ、この現象には当たり前のようにして諸手も掛けられるものなのかもしれない。読者こそ、時間の鍵を回して流動の力学を生み、別天地から創造者の天文学の運行を司る。――まるで謎解きか呪文のような文言なってしまったが、いまこの文章の書き終わりに、ふとそんなことを思った。

    *

作品に対する批評は、メンバーから二人、それぞれ千五百字程度でなされる予定である。辛口か甘口かも選べる予定との事である。創作者には凡そ三千字の言葉が、雲となり翳となり光となり、到来してくることになる。だから私もまずは最初の批評として、この度は上記の文章を三千字程度でまとめてみた次第である。

                              (齋藤)

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