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好きな人になりたい自分と劣等感。

誰とでも自然に仲良くできる好きな人。
自分の気に入った人としか仲良くできない自分。

好きな人と話をしていて、好きな人と比較してそんな自分に強い劣等感を感じ、自己嫌悪に陥ってしまった。そうしたら、好きな人の存在が蛙化現象してしまって辛くなって、親しい友達や親に相談した。

なんか、好きな人、人とのコミュニケーションが神レベルでうまくて、わたしもみんなとうまくやってるつもりだったけど、それは今まで中学とか高校で散々悩んで、本とかたくさん読んで心理学とかめっちゃ勉強して頑張って価値観変えて、努力で作り上げた人間関係だから、それが自然に出来てる人がいるんだってことに悲しくなった。


そうしたら、友達や親に相談して気づいたことが二つあったので書き留めておきたい。



まず、わたしは好きになるとその人に憧れてしまう。その人の存在になりたい、近づきたいと思うらしい。

以前好きな人もそうだった。無意識のうちにファッションや話し方、好きなものが同じになっていった。その人が好きだから、その人みたいになりたい!と思っていた。
憧れの先輩もそうだった。勉強を楽しんでいるところ、好奇心が旺盛なところ、とても優しいところ。その人が大好きだったから、全部真似した。同じになりたかった。
好きなアイドルもそうだった。努力家なところ、どこまでも成長を目指すところ、謙虚なところ、飾らないところ。アイドルの存在は、自分のロールモデルだった。

だから、わたしは今好きな人が"誰とでも自然に仲良くできて誰からも愛されるところ"に憧れてしまった。でも、わたしにはそれができない。できない自分に劣等感を感じる。どう頑張っても好きな人にはなれない。自分なんか相手に釣り合わない。蛙化現象。という、思考の流れが起こってしまったようだ。

自分も好きな人みたいになりたい。

親に話したら、そもそもこの価値観自体考えたことがないと言われた。この考えが、わたしの歪んだ価値観だったのだろうか。

たしかに、好きな人だからその人になる必要なんてない。自分に持っていないものを持っているのだから憧れではあるけど、その人の持っているものの全てを自分が持てるわけじゃない。自分にとっての正解に満足しているのに、わざわざ相手の正解を持ってくる必要がない。何でも好きな人と同じになりたいと思っている時点で間違っている。



そして、誰とでも自然に仲良くできることと、自分の気に入った人としか仲良くしないこと。この二つの価値観に優劣はないということだ。

わたしは、幼稚園小学校中学校高校すべて人間関係に悩んでいたような気がする。
幼稚園の頃から、同級生が幼い、自分だけが同い年な気がしないと悩んでいた。小学校では学級崩壊していたクラスのメンバーや先生が嫌で不登校になった。中学校では、くだらないカーストに嫌気がさした。高校では、中学校での当たり前とのギャップに混乱し文句ばっかり言っていた。

誰とでも仲良くしなきゃいけない。


そう強く思っていた自分は、いつからか誰にでも嫌われないような自分にならなきゃと鎧を被った。小中学校は、完璧にキャラで生きていた。本当の自分はこれじゃない、と思いながら嫌われるのが怖くて鎧は脱げなかった。誰とでも仲良くできることを引き換えに、本当の自分でいられないことがストレスでしかなかった。


だけど、高校に入ってからその価値観を努力で変えた。いや、努力して入った高校の同級生の存在がわたしを変えた。たくさん本も読んだ。心理学に興味を持ち始めたのもこの頃だ。自分にとって正解の人間関係を築こうとした。そして、気づいた。

みんなから嫌われてもいい。
自分の好きな人だけと仲良くすればいいんだ。


わたしは、高2ぐらいからか、出会った瞬間に、雰囲気と話し方でその人と仲良くなれるか分かるようになった。これは感覚的なもので、〜だからという理由はない。ただ、その人から滲み出る雰囲気から瞬間にわかるものだ。(これはできる人とできない人がいるらしい。)
そして、自分でこの人と決めたその人としか仲良くしないようになった。その人以外に心を開こうとは思わない。表面では仲良くしているけれど、一ミリも信用していないし心は完全に閉ざしている。相手から仲良くなろうと近づいてきて、仲良くなった試しがない。


わたしも好きな人と同じように、誰とでも仲良くできるし、嫌いな人もいない。
だけどそれは、心を許した人以外の相手のことを一切信用していないし、諦めているからこそ、"他人"としか思っていないからこそのなかよくなのだ。相手のことを信用していないから、初めから期待していないし裏切られない、良好な関係でいられるのだ。誰のことも好きではないからこそ生まれる八方美人みたいなものだ。

わたしには、沢山の心から信用できる友達がいるし、ステキな人間関係しかないと思っている。これは全て、自分の努力で作り上げたものだ。

相談した友達からは、


そこは人と比べなくていいんやで
人間関係上手くいかなかったり、作り上げた人間関係に納得いかなかったりあんまりいい人たちと関われない人っていっぱいいるけど、そういうところに自分で気付いてどうしたらいいか考えて実行して、結果好きだな居心地いいなっていう人と仲良くできるようになったなら、それで十分凄いよ
努力も才能だよ

って言ってもらえた。嬉しくて泣いてしまった。


誰とでも自然に仲良くできることと、自分の気に入った人としか仲良くしないこと。この二つの価値観に優劣はないのだ。

誰とでも仲良くしなきゃいけない。

これは、幼い頃から植え付けられてきた、いや社会的に植え付けられてきた人としての理想なのかもしれない。わたしはずっとこれを、"誰からも好かれるように、誰からも嫌われないようにみんなと上手く人間関係をやっていかなければいけない"という意味で解釈していた。でも、相手のことを深く理解して、深い関係を築きたいわたしにとっては無理な話だ。

いつからか、これは、"全員とはビジネスとしてその場の仕事が上手く回る程度の関係を築けばよい。そこに好き嫌いや個人の性格を引き合いに出してはいけない。"という意味だと解釈するようになった。これは、高校の同級生たちの影響で生まれた価値観だ。

そもそも、誰とでも仲良くなんて誰が言い始めたのだろう?


だから、誰とでも仲良くしないこと。
これがわたしのモットーであり、正解だ。

好きな人になりたくてもなれない自分に劣等感なんて感じる必要がないし、好きな人になりたいと思わなくていい。憧れだしなりたくもなるけど、わたしにとってはわたしの価値観が正解なのだ。




正直、付き合うなら狭くて深い人間関係を築くわたしみたいな価値観の人がいいと思うけれど、それだと恋人という存在が重くなりすぎて怖いのだ…あくまで恋人は友人の下にいて欲しい。だって儚すぎるんだもの、信用できない…。

2021.4.5


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