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【連作短編】とおくでほえる/#2 オオカミの目

マエノ君の目の中に映る私に会いに、私はそのカフェへ足を運ぶ。私の瞳も、マエノ君を映す鏡であればいいのに。

 太陽が眩しい。怪物みたいに大きくてギラギラ光ったビルの間を早足で歩く。こうしていると、だんだん自分が色を失っていく気がする。すれ違う人とぶつからないように歩くのも、随分上手くなった。

 ビルとビルのあいだに、突然細い小道が現れる。薄暗く翳ったそこに、私は吸い込まれるようにして足を踏み入れた。ここまでは追いかけてこられないのだ、四月の陽気も。少し道を進んだ左側に、地下へ向かう階段がのびている。私は冷たいコンクリートの階段を数段おり、一度止まり、そこで深呼吸をした。

 ミヤタ先輩!穏やかな春の空気を切り裂くように飛んできた、若くて高い声が頭の中で響いた。振り向かなくても誰の声かは分かっていたし、わざわざ聞かなくても何を言いにきたのかは明白だった。いつもそうだから。それでも私は振り向いたし、どうしたの?なんて聞いたのだ。いつも、そうだから。理由を考える事なんて、とっくに忘れた。

 先輩いつもひとりで出て行っちゃうんですもん、休憩もランチも!そう言って彼女はぷっくり頬を膨らませた。急ぎで片付けなきゃいけない事があるからごめんね、バッグからはみ出たノートパソコンを示しながら断ると、彼女は言ったのだ。

「私はいいんですけど。僻んでるひとたちがいるから心配なんです。先輩、つるまないし、仕事できるから。一匹オオカミだって」

 階段の途中で足を止めたまま、プッと吹き出してしまった。一匹オオカミ、かあ。後輩である彼女が味方なのかそうでないのか、わからなくなる事がある。彼女はきっと世渡りがうまくて、誰からも嫌われたりせず、損もしない、そんなタイプの人間だ。私なんかとは違う。一匹オオカミのほんとうの正体を、彼女は多分知らない。

 下まで降りると、目の前に、木枠で囲まれたガラスの扉が現れる。中にはいつもどおりオレンジ色の明かりがまろやかに灯っている。静かにノブを回して中に入った。シャランシャランと、控えめに鈴が鳴った。いらっしゃいませ、という声がして、奥から人が歩いてくる。

「あ、サチエさん。いらっしゃい、お久しぶりです」
「お久しぶりです。カウンター空いてますか」
「もちろん。お好きなとこにどうぞ」

 軽く頷いて、席に向かうまでのほんの一、二秒、私は全ての神経を目に集中させるようにして、彼を見た。いい感じにくたびれた生成りのエプロンをしめ、癖毛をクルクルと自由にあそばせたいつもと同じマエノ君が私を見返した。鏡のようなその目に、一瞬、私が映った。けれど次の瞬間には彼はくるりと踵を返し、「ご案内します」と小さくつぶやいて歩き出してしまう。映って、いたのだろうか。ほんとうに。

 明るい色の木目があたたかい、手作り感あふれるカウンターは、店の一番奥にある。ランチには遅い時間だからか、客はいない。端っこの席に腰を落ち着けると、私はノートパソコンを取り出してテーブルの上で雑に広げた。まるで偉そうな顔をしたオブジェみたいなそいつから目を逸らし、カウンターの向こうのキッチンを眺める。そこに立つマエノ君を、眺める。ここに通い始めた頃、おひとりでカフェを始めたなんてすごいですね、と月並みな言葉をかけた私に、彼は笑いながら言った。

「なぜかそう言われるんです、すごくないんだけど。夢と現実の機嫌を取ってなんとか生きてきた、今のところの形なだけで。僕は喋るのも苦手だし、自分で作ったり考えたりする事が好きだから、一匹オオカミなんて言われてきたけど。違うんだけどなあ、ほんとに」

 一言一言、こぼすように、ゆっくりと時間をかけて、マエノ君は言葉をつむいだ。野暮な社交辞令を言ったことを、私は悔いた。この人の言葉は、よくわかった。この街で働き始めてから、もう長いこと他人の言葉を“わかって”いなかったことにその時気づいた。きっとマエノ君は私の言葉も理解してくれるに違いないと、静かな落雷のようにそう思った。

 その時から、マエノ君の瞳は私を映す鏡になった。

「カフェラテでいいですか」
 マエノ君がケトルを手にしたまま、キッチンから私を見ていた。現実に引き戻された私はふわふわした頭のまま答える。
「はい、いつもどおりで。……あ、やっぱり甘くしてください、今日は」
「かしこまりました。お食事はまだですか」
「これからです。今日何がありますか?」
「春野菜のホットサンド、今週からやってますけど」
「おいしそう。じゃあそれで」

 はい、と短い返事をしてからマエノ君は準備に取り掛かる。豆をひき、ミルクを沸かす間に、パンと野菜を取り出してホットサンドにする。鮮やかな色をしたアスパラガスや玉ねぎやパプリカがリズミカルに刻まれていく様子を、ぼんやり目で追った。節のしっかりした綺麗な手が、これまで何を掴み何をこぼしてきたのか、全てわかるような気がした。

「珍しいですね、サチエさんが甘いカフェラテなんて。お疲れですか」
 手際良くパンをカットしながらそんなことを言うから、私の唇はつい緩んでしまう。
「いいえ……さっき、後輩に言われちゃいました。一匹オオカミだって」

 マエノ君は一瞬手を止めて、ふ、と息を吐いた。ちらりと私に目をやる。頭の奥に、何かがツーンと走った。

「悪い意味の言葉じゃないですよ」
「知ってます。ひとりが好きで、仕事ができるから、だって」

 会社の同僚には死んでも言えない事を、マエノ君になら言えてしまう。その言葉は塗り替えられたり折れ曲がったりせず、彼にちゃんと届くと知っているから。これは私の幻想だろうか?

「私、女子の中では背が高いし、父似の顔立ちのせいかきつく見られることが多かったんですけど。可愛いキャラじゃないから、いつの間にかポニーテールしかしなくなって……そういうもんですよね」

 マエノ君は黙って聞いている。その間にも手が忙しなく動き、パンにマスタードを塗り、ソテーした野菜とベーコンとチーズをはさみ、バターを溶かした鉄のフライパンで焼き始める。

「友達といるのは好きなんです。でもテンポの早い会話についていけなくて。一人で仕事したいのは不器用だからなんだけど。努力の結果がついてきたら、今度はとっつきにくい人にされちゃいました。それって髪型を他人の目に決められてしまったのと、多分同じで。周りの人が、私を一匹オオカミにしたみたい」

 バターの香ばしい匂いが空腹を刺激する。目の前に、きつね色のホットサンドと、湯気のたつカフェラテがなみなみ注がれたマグカップが、コトリ、と置かれた。置きながら、マエノ君はやっと口を開く。

「だから、遠吠えするんじゃないですか」

 カップに伸ばしかけた手が止まる。マエノ君の両眼が私をまっすぐ捉えた。深く沈んだ色をした二つの海に、私が浮かんでいた。まただ。また、この気持ちだ。

 物静かで、木の幹のようにたくましくて、誰よりきめ細かで哀しさを秘めたこの青年を、私は全部知っている。何にしますか、カフェラテで。お疲れ様です、そちらこそ。記号のような言葉しか交わさない関係のこのひとが、手に取るようにわかる。

「はぐれた仲間を探すために、オオカミは遠吠えするんです。それか、いつの間にかはぐれた自分の居場所を教えるためかもしれない。それって言葉の何倍も切実なシグナルに思えるんですよね、僕には」

 思わず唇が震えて言葉が漏れた。
「私の、」
「何ですか?」
 私のシグナルは、あなたに届いていますか。あなたは一体誰に向かって、遠吠えをしているんですか。

 そんな言葉は到底言えないまま口をつぐむ。マエノ君の少しだけ垂れた両眼から走る視線は、私を突き抜けてどこか別のところへ向かっているような気がした。私の瞳も、マエノ君を映す鏡であればいいのに。

 目の前に置かれたカフェラテとホットサンドがゆっくり冷めていく。私はそれらに手を伸ばす事ができないまま、ふう、ふうと息をするだけのオオカミになる。洗い物を始めながら心配そうな顔でこちらを見るマエノ君が、次に何を言うつもりなんだろうとどこか冷めた頭で考えながら、そうして小さく震えながら、私は音のない遠吠えを発し続ける。

貴重な時間を使ってここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。