『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』レビュー②

『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』 著者 大木毅 Takeshi Oki

 独ソ戦はイデオロギーの衝突だ、という歴史観があるだろう。これは本著の主張ではなく、かつて筆者が受けた教育がこれを下支えしている。誰かがどこかで、私にこの言葉を植え込んだか。

ヒトラーにとって、世界観戦争とは「みなごろしの闘争」、すなわち、絶滅戦争にほかならなかった。(同著 大木 P.v)

ナチス=ドイツの国防軍は、ソ連との戦争を不可避のものだとした。いずれ起こるだろうナチズムと社会主義の戦争を先延ばしすることは許されず、いま、戦闘を開始しなければならないとして、開戦に踏み切った。
一方のソ連は、

かつてナポレオンの侵略を退けた1812年の「祖国戦争」になぞらえ、……ロシアを守るための「大祖国戦争」であると規定したのだ。(同著 大木 P.v)

ナショナリズムに訴えかけることで、退路のない戦争を準備した。こうして、外交可能性を一切否定した、互いに一歩も譲らない状況が出来上がってしまった。
「佐藤健」が、新年年越し用に『桃太郎電鉄』を買おうと提案してきた。あれはとても危険なゲームだと筆者は思う。キングボンビーのなすりつけが良くない。しかしComを一人追加することで、かかる問題だけでなく、降りかかる諸々の不条理を解決することができるという。慧眼だ。筆者は(スーパーファミコン以来、)桃鉄をプレーしていないので、きっといろいろなイベント(不条理)と出会うに違いない。
現実世界でも、ある程度「それ」は機能するようにも思える。状況に関心がない者、単一の目的に向かって半自動的に動く者、意思のない者。このような性質を備えた人間が、ある集団に点在することにより、組織のバランスが保たれる。この第三者の立場を深く考えてみたい。それは、イデオロギーの対立に転用できるはずだ。状況に関与しながら意思を持たない第三者とは。……それは神的な者ではないだろうか。
筆者の住む町の隣駅に「蛍明舎(けいめいしゃ)」という喫茶店がある。アパレルショップの2階にある喫茶店の入り口は、ボタニカルに、私たちを迎え入れる。コーヒーの香り、焼き菓子。暖色のカウンターは喫煙席だ。テーブル席は2人掛けだったり4人掛けだったり、斜めの角には1人用の席が小さく収まっている。私は時折訪れては、カウンター席を使う。いまこれを書いているのもそこだ。「佐藤健」も仕事帰りに寄るらしく、時々会う。彼はカウンター席の一番右、入り口すぐの席がお気に入りだ。そこは冬に寒い席だ。
この喫茶店の楽しみかたはいろいろあるだろう。筆者は、選曲が好みだ。名も知らぬクラシックギターが流れていたり、グレゴリオ聖歌が選ばれたりする。しかし今、この文章の向こう側に「Enya」が流れている。『May It Be』。筆者がなぜこの曲を知っているのか。それはこれが映画『ロードオブザリング 旅の仲間』のエンディングテーマだからだ。そして「蛍明舎」の描写を挟んだのも、この映画の名前を出したかったからだ。
言わずと知れたファンタジーの金字塔、『The Lord Of The Rings(邦題:指輪物語)』
平和な村、シャイヤ(ホビット庄)で暮らす小さい者「フロド・バギンズ」は、愛する祖父の誕生日に「1つの指輪」を受け継ぐ。それは闇の冥王「サウロン」の武器であり、葬るべき指輪だ。フロドは「指輪の所持者」となって、8人の旅の仲間とともに「滅びの山」へ旅をする。
この指輪には強力な魔力が備わっている。見る者に「指輪への執着」と「力への欲望」を湧き立たせ、指輪以上のものはこの世にはないと思わせる。フロドが「指輪の所有者」に選ばれた由縁がここにある。フロドには執着と欲望がなかったのだ。
冥王サウロンを滅ぼすという物語の目的に向かって戦い続ける登場人物たちのなかで、彼だけが、指輪の力に惑わされずに旅をすることができた。意思の欠如。なにかを自分だけのものにしたいという支配欲、唯一無二のものになりたいという我欲が彼には無かった。だから彼だけに可能な任務だったのだ。
この文脈でとらえたとき、フロド・バギンズとは神的なものだった。物語の当事者たりえながら、関心を持たず、目的に邁進する。まさに桃鉄のcomのポジションに該当する。
Composition 構成、作曲
出来事の核心そのものとして全体を構成し、運命を握りながらも、当事者意識が希薄な個人としての生そのもの。あるイデオロギー対立を解消する唯一の第三者がcomposition、フロド・バギンズだと主張する。
独ソ戦に話を戻そう。このとき国家とは、既に、個々主体の総意であり、意思を持った単体である。国家そのものが持つ欲望は規定されうる。事実、ドイツは「ナチズム」という思想に基づいて「ルーマニア(油田)」を欲した。「コミュニズム」に基づいて「社会主義国家」の樹立を欲したソビエトも同様だ。ここに必要だった「com」とは誰だったか。イデオロギー対立という物語の矢面に立ちながら、自身の思想に関心がなく、合理選択に沿った行動をする国家。「中立国」という国際政治アイデアは、このように出来したのではないだろうか、と筆者は推察する。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?