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今日のぐるぐる

ちょいと前というには昔すぎるくらい、でも気持ち的にはちょいと前、ぐるぐるというユーザーネームでSNSのアカウントを運営していた。咄嗟に出てきたぐるぐるは、やっぱり頭の中で色んな物事がぐるぐると回っているからで、今日もふとぐるぐるという単語が浮かんできて私は成長していないなあなどと思った。

最近更新しているnoteは、スマホの小さな画面でぽちぽちと文字を打って更新している。今までずっと長い文章はパソコンじゃなきゃ書けないなんて思っていたけれど、部屋の隅っこに座って小さな画面に集中し、自分と対話するかのようなライティングスタイルが今の気分には合っているみたい。更新時間のこともあり、内緒話をしているような気持ちで構えず文章が書ける。

というよりこのスタイルで書く文章は、文章というより文字起こしの感覚に近い。頭の中にいる自分が独白しているのを、外側にいる自分が文字に起こしている。いつも文章がそういう性質のものだと良いんだけどなあ。今日読んだとある記事で、作家の樋口恭介さんが「歩きながら書く。歩きながら読む」そんなだったら良いなあと書いていたけど、それと似ているかもしれない。実際にそういう状態で書いたり読んだりすることは出来ないのは分かっていて、その状態になりたい訳ではなくて、そういう時の心の状態のまま、書いたり、読んだりできると良いなと思うのだ。解釈違いかもしれないけど、私は自分の実感も合わせてそう読み取った。

浮かんでは消えていく考えたいことのひとつに、言動の不一致がある。正しく言えば、言書の不一致かもしれない。これは書いていることと、実際に会った時に言っていることが合っていないなということである。この問題は誰にでも起こりうることだし、私も誰かにそう思われている可能性もある。だから常に言書が合うように、本当に思ったことしか言わないし、伝えたいことしか書かないようにしている。その枠から出ないことを意識することは、私にとって超重要なのだ。

それで、言書の不一致の人の話に戻ると、例えば服の話題がある。言書の不一致な人は「どんな服を着ようと、本人が楽しんでいればいい」と書き、「その服はダサい、変だよ」と嫌悪と嘲笑を前面に出しながら対面で相手に言う。それを同じ場で聞いている私の頭の中では、速攻でその人が書いた過去の文章が参考資料として並べられ、先ほど脳内に録音した証言との確認が行われる。文書と音声の資料は当然ながら不一致で、どうにか二つを繋げようと言外の部分を補う作業が勝手ながら発生し、ミリ単位で で双方を動かしながら繋げようと試みるも、私は堂々と失敗して、諦める。これが言書の不一致が発生する現場の一例です。

気にしなければいい話なのかもしれないが、なにせ小うるさい小娘として育ってしまったので、気にせずにいられない。私が思うに言書の不一致が起きていることに本人は気付いておらず、なぜ気付いていないのかと言うと、言ったことと書いたことの記憶が、同じ記録ボックスには入っていないからだ。またそもそも、自分の過去の言動をほとんど記憶していないことも多い。哲学の観点から言えば、過去、現在、未来は一つの軸上には存在せず、あるのは現在だけで、そもそも過去も未来も“ある”状態にはないので、その人の在り方は哲学的に正しいのかもしれない。が、言ったことと書いたことの乖離が大きいと、周囲に影響が出る。つまり、根本的なあなたの考えはどちらですか?もいう問題。

先述したように、書くと言うをそもそも同じ領域にカテゴライズしていない場合、どちらも私の考えということになる。書く場合も、言う場合もその人が発せられたのだから、その人が持つ考えであることは間違いないのだが、表裏と表現するには離れすぎている二つの考えをほぼ同時に持っていられることが私には不思議なのだ。人間なので、もちろん日々の考えに揺らぎは生じる。自分が発言する際のスタンスを見つけられていない場合、左右への振りはより大きくなることは間違いない。でもそれは長く続けられないことだ。なぜなら精神が疲弊するから。もしかしたら、内容の一致は重要ではないのかもしれない。重要なのは扱う主題か?

最近、代々木エリアにオープンしたとあるカフェが、スマホでの店外/店内写真の撮影を一時禁止とするお知らせを出していた。そのお知らせが出る前から、オーナーの人は「困った。写真撮影を禁止にしなくちゃいけないかもしれない」とSNSに書き込んでおり、個人的にどう判断されるのか気になっていたところだった。

新店舗のオープンも、新作商品の発売も、誰かのSNSを通じて知ることの多い時代だ。実際、私はそのカフェのことを全く知らず、たまたまオーナーの方の呟きを見て知った。存在知らなかった物事が突然視野に入ってくることによるメリットは確かに大きい。でもSNSで一気に拡散して知れ渡ることによるデメリットも、なかなか大きくなってきたよなと最近は思う。

過去に偶然読んだ印象的な記事がある。その記事では、若い世代の間で写真映えするスイーツが食べられると爆発的に知れ渡ったお店の店長が、ひっきりなしにやってくるお客さん、周囲の迷惑を考えずに写真撮影を行うお客さんの対応に心身ともに疲弊し、店舗を休業せざるを得ない事態に陥った顛末が書かれていた。爆発的な人気を得ることのメリットが、お金、認知度、安定だとすると、デメリットは健常な心を失うことだと言える。お金も、認知度も、安定も別の形で作れるかもしれない。けれど、健常な心は取り戻すのに時間がかかるし、場合によっては取り戻せないことだってある。そのことを考えると、一概にSNSで広めること、バズらせることが最善の策だとは言えなくなる。情報に飛びつく人は情報が好きなのであって、情報の内容には微塵も興味がないのだ。

今日のぐるぐるはここまでにしよう。最終的な結論を導き出せなくても、途中まででも自力で考えることが楽しく、意味がある。

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