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プリウスとベントレー:写真の部屋

俺の仕事はポートレートが多いんだけど、写真では専門分野がかなり細かく決まっていて、大ざっぱに分けると人物、風景、ブツ撮りがある。その全部を完璧に撮れる人というのはほんの一握り、数人だと言ってもいい。写真というのはシャッターを押せば誰でも撮れるので、その価値を決めるのは「相手」だ。

化粧品広告の例で、モデルの顔が全体に大きく写っているポスターがあったとする。角の方には商品のカットが配置されているだろう。この二枚の写真はほぼすべての場合、別の人が撮っている。人物を撮るのが得意な人と化粧品の瓶を美しく撮れる人。ひとつのポスターでふたりのカメラマンがキャスティングされる。

「僕は写真を撮っています」という人にそういった仕事が来るかと言えば、まず来ない。写真の善し悪しというのは、「その場所で必要とされる能力を持っているか」が基準になる。駅貼りのB倍ポスターサイズに耐えられる写真を撮れる能力、反射が多くて難しい化粧品のボトルを完璧に撮影できる技術、それらがあると知られている人だけに仕事は発注される。そのアドレス帳は、それらの仕事に実際に関わっている人しか知らない。

だから自分がいい表情の女性の写真が撮れたと思っても、アドレス帳に載っていない限りそこには呼ばれないわけだ。外から見えている他人の仕事というのは全体の数%以下だろう。それがよくわかるのはテレビドラマなどで専門職を扱うときだ。建築事務所が舞台であるとしたら、コンペや会議に参加する、模型を作っている、などのシーンしか描かれないはず。それはドラマを作る人が「建築家の日常のすべて」を知らないからだ。

もちろんキッチンに貼るタイルの選定をしているところなどはドラマティックな画面にならないから描かないんだろうけど、そうした我々には知り得ない数百、数千の作業を積み重ねた中の「0.5%ほどのクライマックス」が、コンペで建築家がプレゼンしている場面なのだ。

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写真にしても、どうやって鏡面の化粧品ボトルをスタジオで撮影しているかはまったくわからないはずだし、簡単そうに見える人物撮影でも、ごく普通に撮っている写真とは全然違う行程を経ている。写真家がとてもナチュラルに風景や人物を撮っているドキュメンタリー映像などを見かける場合もある。でもそれはアート、商業写真などのつまらない垣根の問題ではなく、できあがった一枚の写真の価値を買う人が決めている。

「ピカソの殴り書きなんて俺にでも描けるわ」という、無知で乱暴な言葉を聞くことがあるが、確かに同じようなモノは描けるだろう。でも俺が描いた殴り書きは誰も欲しくならない。趣味ではなく仕事にした途端、「欲しがってくれる相手がいるか」という判断にさらされることになるということで、それが求められれば職業になるし、求められなければ仕事にならない。単純だ。

いくらインスタグラムなどでフォロワーが多くても、その単純さを知らないと、こんなことが起きる。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。