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ひとつめの旅:Anizine

ある人が「旅っていう言葉が嫌いなんだよね」と言っていた。それはなぜかと聞くと、「いかにも俺はスゴいことをしてますっていう自慢っぽいじゃん、旅行でいいのに」と続けた。普段から割と浅はかなことを言いがちの人だったから驚きもしなかったけど、その根拠の脆弱さに旅と旅行は違うものだと知らないのだなと悲しく思った。八歩譲って、別に同じでもいいのだ。しかし本人が「旅だ」と言うことに他人が異論を唱える権利はない。

30年くらい前、俺が初めて行った外国は韓国だった。飛行機で数時間の距離しか離れていないのにまったく言葉が通じないこと、文化が違うこと、などを初体験した。数日間の研修旅行に参加しただけだったから、さっきの例で言えば単なる物見遊山の「旅行」と言える。外国は日本とは違うのだという帯の推薦文を読んだ程度で、まだ本文へのページもめくっていない段階だ。

研修と言っても、着いた日のほんの数時間で現地での予定は終わってしまい、あとはほぼフリーだった。「ここで降りるのだ」というメモを持って地下鉄に乗った。地下鉄のチケットのシステムは外国からの観光客にもわかりやすく、東京よりも進んでいるなあと感じた。車内から次々に通り過ぎていく駅名を見て降りる駅名を読もうとするのだがハングルはほぼ同じ記号にしか感じられず、俺の動体視力では太刀打ちできなかった。

当時は特にそうだけど、アジア的なものに我々はとても複雑な感情を持っている。ヨーロッパの歴史ある荘厳な建物、アメリカのだだっ広く乾いた荒野など、風景や人に圧倒的に大きな違いを感じると感動のポイントがわかりやすい。でも顔も生活も似ている人々の日常を見ると、どこかに共通点を探してしまうし、でも違っているという感情が生まれる。

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欧米の人が何の気なしに言う言葉の奥に、「あなた方も早く我々のような生活レベルにたどり着けるといいですね」という意識を感じることがある。悪気はないんだろうけどキリスト教布教時代からもわかるように、「アジアの人々は未開の野蛮人だ」という感覚がゼロでないとは言い切れない。ポルトガルではそこにいた人たちよりも俺たちの方がみんな背が高かったから、気のいいおじさんが「日本人は醜くて背が小さい人たちだと思っていた」とポルトガル語で話すのを目の前で聞いたこともある。

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Anizine

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写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。