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齋藤陽道『声めぐり』:写真の部屋

写真家・齋藤陽道さんの『声めぐり』を読んでいる。

以前から、いい写真を撮る人だなあと思っていた。確か、七尾旅人さんのツイートで知ったような気がする。それからTwitterでだけ会話をしていたんだけど、昨日初めて会うことができた。プロレスをやっていることもあって頑丈な体格をしていたし、握手した手もPENTAX67がフィットしそうだなと感じた。

『声めぐり』は、知人の編集者である大熊さんが書いていた聴覚障害について少しでも理解できればと思って読み始めたが、音と世界との関わり、それが陽道さんが写真を撮ることにどう繋がっていくのかがわかっていくうち、素晴らしい写真論に思えてきた。

写真は何かを残そうとする手段だから、その本質的な核がないと写らない。

「写真はコミュニケーションの貧しさを残酷なまでに露わにする」

というのが、陽道さんが写真を始めた頃の落胆の言葉だ。そして補聴器で音を聞くのをやめ、手話で饒舌に話す友人たちと出会うことで、目に見える言葉を撮ろうとする。俺たちが決して考えることのない、「声を写そう」とする試みだった。

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勝手に陽道さんに親近感を持っていたのは、俺は撮影のときの沈黙が好きだからかもしれない。スタジオでは音楽もかけないし、いちいち相手に指示したりもしない。撮っているうちにモデルと何かが通じ合う瞬間があるから、それを言葉にしてしまうことが、とても勿体なく感じるのだ。だから言葉の通じない外国人でも撮り方はまったく変わらない。

写真展会場で陽道さんと目が合ったとき、互いにニッコリとし、握手した。そこにも何も言葉はいらないが、彼は「やっと会えてうれしいです。」とメモに書いてくれた。

そのあと、同じ明治通り沿いで舞山さんの写真展のオープニングに寄った。写真を見てから舞山さんと握手だけして帰ったが、陽道さんとのときと何も違いがないなと感じた。言葉を尽くすことは写真表現でも似ているんだけど、感情の説明になってしまうことがある。

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写真の部屋

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。