ジョン・ケージの255:写真の部屋(無料記事)
うつむいて写真を撮っていると通りがかった人が不思議そうに見ていく。何でもないモノですが、撮れば否応なく写真になります。そこにイベントがなくても撮れるのです。
口を甘辛くして何度も言いますけど「撮る意味がないモノ」などはひとつも存在しません。ミュージシャンでもハリウッドスターでもないのに、あなたは自分の家族を撮るのと同じように、写るモノの価値は撮る人が決めます。
つい最近閉店してしまったけど、青山、骨董通りの入口にParisのカフェ「ラデュレ」がありました。Parisの店はシックで大人っぽいんですが、ファンシーなインテリアの店内は「instagram」にうってつけのパステルカラーで、若い女性の二人組がいつもスマホをカシャカシャやっていました。
ハッシュタグを見たことがありますけど、ここで撮られた写真はどれも同じように見えました。「青山のラデュレに来ました」という、旗を立てる行為だからです。こういった「何かのシンボルやイベントを撮ること」から卒業できないと、表現としての写真には至りません。
では、自分が撮るべきモノとはどうやって探せばいいんでしょうか。今日はそれを考えます。
写真には大きく分けて「記録」と「表現」があります。
記録とは、結婚式や運動会、七五三、建築現場の進捗状況、証明写真、などです。これの目的は「そうであったこと」を証明するための記録で、撮っている人の意図はそれほど重要ではありません。写っている人やモノがどういう状態かを正確に残せればいい。
表現は、写っているモノよりも撮る側の意識が前に出ている写真のことです。記録写真以外のすべてのモノと言ってもいいでしょう。ジャーナリズムにおける報道写真などは記録でありながらそこに撮る側の意図が出ますから、ふたつの円が少しだけ重なるかもしれませんが、出来事を伝えるという部分が大きいので、記録です。
ここを読んでいるメンバーの皆さんは、おそらく「写真の表現」を突き詰めようとしている人がほとんどだろうと思います。記録が主眼なのであれば、「運動会に最適なズーム10本徹底解説」みたいなYouTubeを見た方が数倍役に立ちますから。
俺は誰もが、カメラという機械を使って自己表現をする、という大前提で書いています。
ある人が自宅の庭に咲いている花を撮る。去年よりも綺麗だなあ、記録しておこう。ここから始まります。もっと綺麗に撮りたい。いいカメラとレンズを買った。もっとうまく撮りたいと思う。でも撮れない。それは記録には人の気持ちを動かす限界があって、いくら綺麗に高精細に撮れてもそれは写真の出来とは無関係なのです。
いいカメラやレンズが欲しいという方向に進む人は、ここの分岐点を間違えています。記録から表現に行くインターチェンジを見逃してしまうのです。そこで何をすればいいかと言えば「私はなぜこの花を撮りたいと思ったのか」を見つめ直すことで、それがわからなければ、見た人の心は動きません。
撮りたいと思った衝動が主役になった写真は、どんなにボケていてもブレていても、安いカメラで撮っても誰かを感動させることができます。
写真の表現は無限です。写真を勉強するという狭い考えを捨ててください。ジョン・ケージは無音の音楽を作りました。それと同じで、写真展に真っ白な「RGB255」の、何もプリントしていない白い印画紙を展示してもいい。極端な話をするとそれが写真の限界、極北です。ジョン・ケージって誰ですか、とは言わないでください。音楽で言えば、絵画で言えば、という、写真の外側の世界を構成するモノに関して無知でありながら、写真を構築することはできません。
たった1時間でもいいですから、自宅から散歩をして、目に入るすべてのモノを撮ってみる訓練をしてください。「白いワンピースを着た長い髪の少女が海辺を歩いている」なんていうクリシェが、いかにあなたの写真の世界を狭めているかに気づくと思います。
というようなことを書いている「写真の部屋」
https://note.com/aniwatanabe/m/mafe39aeac0ea
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。