見出し画像

写真の部屋:(無料記事)

「私の好きなJ-POPの歌詞」というのをネットで見かけた。自分が好きな歌詞を抜き書きしているんだけど、あまりにも表面的で、小田和正さん的に言えば、言葉にできない。

写真を撮ることはドラマを写すことでもあるけど、そこで起きている状況に対して、撮る側が溺れてはいけないと思っている。ちょっとジャーナリスティックな言い方だけど、「安っぽい共感を排除しないと見えてこない」ものがある。

たとえばこの写真。ヨーロッパのターミナル駅だったから、もしかすると恋人同士の別れなのかもしれないし、辛いことがあった家族なのかもしれない。それはわからないけど、そこに撮る側が「別離」なんていう典型的な歌詞を思い浮かべてしまってはならないということだ。

画像1

この前、写真賞の審査員をしたとき、あまりにも写真のタイトルがひどいのに辟易した。写真と言語の能力は切り離せないものだと俺は思っているけど、都心のビルの写真に小さく人が写っていて、「都会の孤独」なんていう題名をつけられると、撮った感情の底の浅さが、見る側の想像力を奪ってしまって、とても勿体ない。

じゃあどうすればいいのか。それは本を読むことだ。

写真が物語を描くとするなら、物語が持つ世界を知らなくてはいけない。戯曲でも小説でも詩でも何でもいいけど、「ドラマツルギー」というのがどういうものなのかの確固たる基準が自分の中にないと、ビルを撮った写真に「都会の孤独」というアホっぽい題名をつけてしまうことになる。

歌詞が全部ダメだとは言っていない。昨日も鬼束ちひろさんのライブ映像での『眩暈』という曲を聴いて、その言語感覚の素晴らしさに改めて感心した。都会の孤独のように、「こう言っておけば誰でも簡単にわかってくれるだろう」という媚びた言葉が徹底的に排除されている。ぜひ、歌詞を検索して読んでみて欲しい。

この定期購読マガジンを写真が巧くなるために読んでいる、というメールをもらう。それは俺が望むところだけど、ライティングがどうとかレンズの描写がどうのと言う前に、どんなドラマを撮りたいのかというドラマツルギーが前提として存在していなければどうしようもない。その感情の衝動がJ-POPのベタな歌詞でしかないのなら、世界はそれ以上に広がりようがないから。

出来事を演劇的にセットアップする方法もあるし、そこで起きていることを発見して撮る方法もある。しかしどちらにも共通するのは、ドラマの監督としてそれが描くべき優れたシーンか、という判断でしかない。

たとえば男性が撮った女性のポートレートを見れば、その人の「女性観」がすぐにわかる。こういうポーズや感情表現をして欲しいというとき、その人の恋愛経験を上回る表現は決して出てこないからだ。品のない言い方をすれば、恋愛を想像しているだけの「童貞感」があからさまに出てしまう。

その不足は文学で補えばいい。シェイクスピアでも村上春樹でも山田詠美さんでもいい。困難だけど自分が撮った写真の中にあるドラマがそれらの世界を上回っている、と思えればスゴいことだ。できなくて当然だけど。でも、その時に論外なのは、「そういうの、まったく読んだことないんですよね」と言う怠惰だ。

というようなことを書いている「写真の部屋」です。
https://note.com/aniwatanabe/m/mafe39aeac0ea


ここから先は

0字

写真の部屋

¥500 / 月

人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。