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ただの嘘つき:写真の部屋

表現に関わる訓練は、受験勉強のようにはいかない。表現のための技術を学ぶのは必要不可欠なことなので、勉強しない人は当然のように脱落していく。

勉強や訓練の方法を間違えていても結果は同じで、「頑張っているのに結果が出ない」という人は、自己流の努力の方法を再考してみた方がいい。

そしてそれもまだ救いのある人だ。「何も正しい方法で学んでいないが結果が出ている」と勘違いしている人に対してはまったく助言のしようがない。何度も書くことになるけど、カメラを買えばその場で誰にでも写真は撮れる。それを「撮れるようになった」と思う錯覚と、必死で戦わなくちゃいけない。

勘違いしないための一番の方法は、感情的、抽象的な評価を一切排除してみることだ。つまり、これを撮られたモデルが喜んでくれた、とか、なんとも言えない空気感が写っているとか、そういうの。

ここによりどころを求めると「嘘つき」な表現者になる。いや、表現者じゃないな。「ただの嘘つき」だ。フィギュアスケートの評価に技術と芸術点があるように、写真にも両方がある。でも、技術点が水準に達していない人の芸術点が評価されることはあり得ない。独立はしていないのだ。

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芸術点についての評価は誰でも適当に言えるのだと思っている。そこに寄りかかっていると能力は上がらない。なぜその時にそれが撮れたのか、もっといいのが撮れなかったのかという反省の基準を、可能な限り高く持つことを自分に厳しく課さないといけない。

それをわかりやすくする具体的な方法はいくつかある。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。