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差別の構造その2:Anizine

政治家などが失言する。彼らは失言だと批判されると、「誤解があったようだが、表現に気を悪くされたのならお詫びします」と、印鑑レス社会になるというのに、判で押したようなことを毎回言う。

なぜ彼らが失言を繰り返すのかと言えば、当然のごとく「本音が漏れてしまうから」だ。心の中で一度も思ったことがない失言をするのは難しく、おそらくそんな経験はないはずだ。

差別や暴言のほとんどは彼らが日々思っていることで、似た考えを持つ人々と一緒にいる密室では日常的に口に出して言っていることなのだろう。

それがつい公の場でポロッと出てしまうのが「失言」というもの。だから本当は考えを改めるつもりもなく、謝る気持ちもない。「謝っておけば終わるから、頭だけ下げておけ」と上から命令されるからそうするだけで、「数日経てば忘れてしまうから気にしなくてもいい」と思っている。

差別やいじめなども同様に、潜在的で能動的な意図がなければ発生しない。

「白人は黒人をアフリカから連れてきたが、自分たちを脅かすほどに増えて権力を持たれては困る」「単純労働のために入国してきたメキシコ人に偉そうな顔をされるのは嫌だ」といった考えが、白人支配層の根本にあることは疑いようがない。

それがなかったら、悪意なく「黒人はけしからん」「メキシコとの国境に壁を作れ」といった発言を(偶然、間違えて)するはずがない。

つまり、表現としてあらわれるすべては必ず潜在意識に含まれている。誰でもこの場ではそれを言わないほうがいい、というブレーキをかけている個人的な考えがあるものだが、つい口が滑る。問題なのは「口が滑ったこと」ではなくて、常日頃そう思っていたことのほうだ。

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ヨーロッパのある国に行った時、リビングルームで仲良く話していたように見えた人々が、ある国の人がいなくなった途端にその人種をバカにし始めたことがある。さっきまでは普通に話していたのにと俺は驚き、俺が帰った後は「日本人ってダサいよな」などと話すのだろうと感じた。俺がダサいという手応のある事実は、日本人全体をレペゼンしていないからやめて欲しい。

こういった例からわかるのは、差別とは自分のテリトリーを強固にするために部外者を排除するという、村社会の構造が引き起こすということ。その基準は人種であったり思想であったり、あるときには野球ファンを馬鹿にするサッカーファンであったりもする。

「自分たちと、それ以外」

そのフレーミングが自分たちのコミュニティを安心させる根拠であるなら、あらゆる基準において差別・排除されない人は存在しないことになる。あいつはブラジル人だから嫌いだと言う人が、サッカーはブラジルが最高だと思っていることもごく普通にあるからだ。

「日本人であり、東京に住んでいて、写真を撮る人であり、頭髪が少なく、見た目が極端にダサい」という俺の複合情報は、必ずどこかの部分で誰かの価値観と衝突するに決まっている。もうそれは考えても仕方ないのだ。反対に俺と共通している人々を手放しで仲間であるとも思っていない。集合としての円は重なりつつ離れ、誰とも完全には一致しない。

ほんの少しでも円が重なる部分がある人と出会ったらその出会いの幸運だけを喜び、「ここは重なっていないじゃないか。ナメてんのか」とイラつくことはやめたほうがいいと思うのだ。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。