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時代のトーン:写真の部屋

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写っているモチーフのレトロさは置いといて、これを見てください。60年代や70年代にはこういう写真が多かったことを知識としては知っている人も多いはずです。カメラ雑誌には「provoke」などの影響なのか、粒子が荒れていたりブレていたりボケている写真を、アマチュアも量産して投稿していました。

「これじゃないモノを」というのが創造の始まりですから、何かの表現が一般的に浸透してしまうとカウンターがあらわれてくるもので、つねにその繰り返しです。90年代に入ると日本では「薄い写真」が増えてきます。俺の先輩であるホンマタカシさんから作品のファイルを見せてもらったとき、口には出しませんでしたけど「薄っ」と感じました。

森山大道さんなどが好んで撮っていた新宿のような、人と風景の猥雑な関係の「濃さ」はどこにもなく、郊外の団地や原宿にいる無表情な若者たちが薄い色のカラープリントになっていました。それまでの常識の全否定です。

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さっきと同じ風景を違う現像にするとこうなるでしょうか。特にホンマさんは135ではなく4x5を使っていましたから、どうでもいい風景を極めて精密な描写で写していました。測量的というか記録というか。それもまた「ロボットみたいな心の不在」を表現していた気がします。風景から粒子や色や影、つまり物理的な歪みやノイズが表現する人間の感情を消し去ってみせることが90年代的だったのかもしれません。

その風潮はInstagramのようなプラットフォームで今でも根強く残っています。写真は時代を映すモノなので、学生運動、ベトナム戦争、ジャズ喫茶なんていうモノクローム写真の語彙から遠く離れた場所にいるのでしょう。ホンマさんは広告出身ですからかなり戦略的に常識へのカウンターを意識していた気がしますけど、今、写真を撮っている人の「草食系の心情」を思うと、まだまだこれがスタンダードに続くんだろうなと感じます。

その大きなヒントが「私は人を撮るのが苦手なんです」という発言です。

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写真の部屋

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。