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自分の能力に対する親バカ。

ロバート・ツルッパゲとの対話』を書いて一番スッキリしたのは、「ビジュアルとは言葉である」という、映像の文学性について言及できたことだ。

言葉を意識せずに写真を撮ることができないのは、科学的な事実だと思っていたんだけど、そこに「温度」「情念」「言葉にできない」みたいなシュガーコーティングをほどこすオカルトな人がいる。

もちろん、映像で温度や情念も描けると思うんだけど、ビジュアルは言葉の定義に隷属しているから、上位には行き得ない。つまり、海という一文字を超えるビジュアルは存在しないってことだ。

昔、「勉強が苦手だからアートでもやるか」という知人の話を聞いて、椅子から転げ落ちたことがある。比喩的に。アホなことを言うな。アートというのはそれまでの人類の叡智を華麗に覆してみせることなのに、アホにできるはずがないだろう。

叡智の更新を親切丁寧に解説してみせるやり方もあるけど、それは学者の仕事だ。「華麗に」と言ったのは、たった一枚の絵や写真、数分の詩や音楽で、エレガントに学者と同じことができるからアーティストには学者とは別の存在価値があるのだ。

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テクノロジーとして高性能なiPadを開発する人と、それを美しいプロダクトデザインとしてカタチにする人はアーティストの範疇だと思う。でも、そのiPadにヘタクソな絵を描く人をあまりにも「アーティスト」と呼びすぎなんだと思う。つまり「自分の能力に対する親バカ」。

ロバートの本では、哲学をポン酢のように使って話を進めたけど、アートもまったく同じ。そこにいる一人の人間が歴史を塗り替えるために何をすればいいか。結局のところ、自分がやりたいと思った、自分にしか見えないモノを描くしかない。他人の真似や流行を追うことはすでにあることの再生産だからやらなくていい。

真似というのは消費で、あらかじめ線が描かれている「塗り絵」を買ってきて色を塗ることだ。色の塗り方の上手さはママ以外に誰も褒めてくれない。

自分がやりたいことの答えは自分の中にしかない上に、前例がないことをするわけだから、とにかく悩む。試行錯誤して数億回の失敗を日々積み重ねる。それしかないんだよなと思いながら、おはようございます。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。