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カナちゃん:博士の普通の愛情

カナちゃんの実家が栃木で温泉旅館をしているそうで、そこに行こうということになった。

川沿いの細い道に、彼女の運転するクルマが入って行く。いくつも旅館が並ぶ賑やかな温泉街だ。「なかなかいいところじゃん」と言うと、「昔よりは活気がないけどね」と答える。本格的にさびれた温泉街をいくつか見たことがあるので、これくらいなら十分流行っている方じゃないのかなと僕は思った。

実家を継げと言われた彼女は温泉の仕事が嫌いだったので、なかば強引に東京に出てきたらしい。それから数えるほどしかここには戻っていないという。坂の上にある古い建物が見えてくると、「あそこがうちの旅館」と言った。駐車場に車を停めているとき、掃除をしていた旅館の半纏を着た80歳くらいのおじいさんがこちらに気づいて近寄ってきた。

「カナちゃんか。これは珍しい」と言った。

彼女はそれを無視して旅館に入っていく。入り口で挨拶をした従業員も同じように無視した。階段を上り、クネクネとした迷路のような廊下を勝手に進んでいき、「鬼怒」と札がかけてある部屋に入る。文豪が泊まっていたような古いタイプの大きめの部屋だった。

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「ねえ、なんで挨拶しないの」と聞いてみる。普段のカナちゃんは礼儀もちゃんとしているし、優しい女性だと感じていたから不思議だった。

「ここにいる全員、嫌いなの」と窓をすべて開けながら言い、川を見下ろした。大きな川岸の崖にへばりつくように旅館が並んでいる。気持ちのいい風がカナちゃんの長い髪をふわっとなびかせた。

僕とカナちゃんはいわゆる恋人ではなく、友人だ。おかしいかもしれないけど、僕らはいつも同じ部屋に泊まる。何年か前、仕事で知り合ったカナちゃんがイタリアに行こうと思っていると話していた。偶然、僕もその時期に一週間ローマに遊びに行くんだよと言うと、じゃあ現地でご飯でも食べようと言う。それは楽しそうだねと言いつつも、僕はその社交辞令のような話を忘れていた。

ローマに行く一ヶ月くらい前になってカナちゃんからメールが来た。往復とも僕と同じ日程にしたらしい。飛行機の座席は離れていたが、僕の隣に誰も座っていなかったのでカナちゃんは移動してきた。そして、慌てて航空券を取っただけでローマのホテルを予約していないと言った。

仕事で知り合ったばかりのあまりよく知らない女性とローマで数日を過ごすことになったら、ちょっと気が重いなと僕は思った。僕は観光に興味がないから、あちこち連れ回されたらたまらない。フィウミチーノ空港に着いて、取りあえず僕のホテルに向かう。

「カナちゃん、このホテルに部屋を取るか、ほかのホテルを探してもいいけど」と聞くと、「同じ部屋に泊めてもらうから、いい」と言う。「いい」かどうかは僕が決めたいんだけど。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。