見出し画像

写真は湧き水:写真の部屋

写真についてたくさんの人が読んでくれているこういう場があるのであらためて書いておきます。それは「写真」だけに限らず、すべてのことに共通していると思っていますが、何かを表現する衝動は誰からも批評されなくていい、ということです。

さっき、知人が自分の子供の写真をFacebookにアップしているのを見ました。きょとんとした顔を、写真家である父親に向けている赤ちゃん。「いい写真だなあ」と思うと同時に、これが写真のすべてだと言っていいと感じました。

何かを表現するという行為の純粋さは、山の上の方で湧いている水のようです。山頂に近い岩の割れ目からちょろちょろと流れ始めた水が最後は大きな川になりますが、源流では自分のことを「川の始まり」であると意識していない気がします。山を下りながら他の流れと合流したりしながら大きくなって海にまで達したとしても、その始まりは最初の少量の水です。

やや抽象的な表現になりましたけど、我々が写真と呼んでいるもの、言説を弄んでいるものの多くが住宅地を流れる澱んだ川のように、すでに山上で生まれたときの純粋さとはかけ離れてしまっているんじゃないかなと感じたわけです。それを赤ちゃんの写真を見たときに感じました。そこに写っているのは何かを撮りたいという衝動のみであり、自分の赤ちゃんを撮った写真を誰かにほめてもらいたいとか、こういう構図を試みた、なんていうつまらない不純物が混ざっていません。

画像1

俺が思っている写真の定義とは、逆説的になりますけど「定義などするべきではないもの」で、あの写真はこう撮っていないからだめだ、などという批評したがりの言葉は全部無視していいと思っています。

そういう人が何のためにそれをするのかを考えてみればわかります。

ここから先は

638字

写真の部屋

¥500 / 月

人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。