見出し画像

ジュネーブとブリュッセル:写真の部屋

カメラさえ持っていれば、近所の公園でも家の猫だって撮れる。

とはいうものの、やはりどこかに行きたい。知らない場所に写真を撮りに行くのは「個人的なジャーナリズム」への欲求であると言えます。

ちょっと差別的な言い方になるかもしれないですけど、デザイナーとカメラマンの知人を比較すると、圧倒的にカメラマンの方が話が面白いことに気づきます。彼らは移動していないと仕事にならないわけで、移動先では必ずと言っていいほど「自分の居場所」とは違った文化に接することになります。

もちろんアートディレクターもコピーライターも一緒にロケに行くことが多いのですが、カメラマンは「そこで私は何を持ち帰るか」を試されているので、他の人たちとは現地での集中力が違っています。

画像1

文化とは極論すると「違い」のことです。

「日本人って、部屋の中で靴を脱ぐんだね。驚いた」と、外国の人は初めて学びます。そしてそういった風習の違いをただ「へえ」と思うか、印象的な写真に残すかの意識の差で、その場面の記憶の濃さが変わってきます。だから撮影スタッフの中だけで言えば、カメラマンは他の人よりもその違いをじっと見つめていると言えましょう。

自分がアートディレクターとして外国にロケに行っていたときは正直な話、ただぼんやりしていたことが多く、「綺麗な風景だな」「これ、美味しいな」くらいしか言っていませんでした。

違いを意識すると、今まで何とも思わなかった自分の常識が立体的に見えてきます。色々な場所に行っている人と話すと、自分の常識という凝り固まったホームグラウンドがないんだなと感じることがあります。世界が並列になり、同列になるのです。自分が所属する場が消えて、すべてのエレメントがニュートラルになっていくというか。

そして、どんな場所に行っても自分のまなざしを持てるのではないかと思います。共同体の常識との比較ではなく、個人としての文化を持ち得たことの証しです。この感覚がないと、初めて見たモノに振り回され、わかりやすい異文化のシンボルだけに目が行くことになります。

ただ、そこには落とし穴があることも忘れてはいけません。

ここから先は

554字

写真の部屋

¥500 / 月

人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。