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基準が写る:写真の部屋

すべてのことは「料理の比喩」で、何とかなると思っている私です。

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友人にシェフが多いので適当なことを言ってはいないかといつもヒヤヒヤしていますけど。

各地から集められた上質な旬の食材、料理の色や形を際立たせるための器、フォークやナイフ、インテリア、ソムリエのサービス、磨き抜かれ、選び抜かれたそれらのすべてを客は味わうことができます。

ルーブルに飾られた絵は数年後に観ても同じでしょうが、その隣にあるレストランで前と同じモノを注文しても味は微妙に違うはず。料理は100回食べれば100回違う味がするものだからです。同じ店に何度行っても飽きることはなく、毎回一喜一憂できるわけです。

『SMOKE』という映画ではハーヴェイ・カイテルが毎朝同じ街角を撮るシーンが出てきました。写真が料理に似ていると思うのはそのあたりかもしれないと思っています。目の前を通り過ぎる人々や風や光という素材はいつも違います。もしかしたら、ここで写真について書いていることは、反対に言うと料理人たちにも実感できるんじゃないかと思っています。素材を選び、適切に料理し、皿に並べることの意味。

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写真を勉強している人には、「関係ないと思うかもしれませんけど、できるだけいいものを食べるようにしてください」と言っています。有名な店で贅沢なものを食べろというのではなく、真剣に丁寧に誠意を持って作られたものをできるだけ食べて欲しいという意味です。

今の時代は、機械的でインスタントなアマチュアリズムが支配しています。

食事は自分の肉体を作るための行動ですが、その原料となるものの選択を考えていないとするなら、出来上がったカラダも適当な結果になります。筋肉だけではありません。脳も同じようになるから怖いのです。

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空腹を満たすガソリンを補給するように、アルバイトがマニュアル通りに作ったものを食事だと思うのか、長年考え抜かれた旬の野菜や魚や肉などを、熟練の職人が料理したものを食事だと思うのかは自分の選択です。

肉体の維持は栄養素によって決まり、脳の成長は「食事のあり方への意識」によって変わっていきます。

自分の目で見たものが、いいものなのか、悪いものなのかの判断を、美術館でもレストランでもつねに行う、という習慣をつけることが大事だと思っています。その毎日の行動の基準はそのまま写真にあらわれます。

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アメリカ風のテーマパークやヨーロッパ風のカフェが好きな人と話していていつも思うのは、本当にそれが好きなのか、ということです。蟹は高くて買えないからカニカマを食べているうちに「僕はカニカマが好きだ」と思ってしまったのかどうかが、もう自分でわからなくなっています。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。