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主観の質:写真の部屋

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カメラを持って街に出ると、外的な要因で「スイッチ」が押されることがあります。仕事の撮影だと、「今日はこの撮影だから頑張ろう」と、気持ちは他にブレることはありませんが、ただぶらぶらと散歩していると撮るべきモノは決まっていません。

最初に撮った一枚に気分が引っ張られることがあり、それが自然と「組写真」になっていくことがあります。昨日はSIGMAの45mmをSONYのα9iiにつけて出かけました。コンパクトなスナップ仕様です。この段階である程度はその日の気分が決まっていますが、最初の一枚を撮るまではなかなか撮るモノが定まりません。

目についた面白い状況を次々に撮っていくのもいいんですが、それだけだとただの反射的な昆虫採集のようになってしまいます。一日の方向性を決めてみるのも日常的な訓練になります。夕方の雲をモノクロモードで撮ったとき、「カメラを初めて持った頃はこんな写真を撮っていた」と思い出しました。45mmの濃い描写も含めて、70年代のカメラ雑誌に載っていたような写真でも撮ってみるかと思いました。

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こんなやつです。今はこういうのを好んでは撮りませんが、高校生だった当時は森山大道、倉田精二、北島敬三さんなどが好きだったので、こういうのを撮ればいいのだと思って横須賀などを撮り歩きました。今思うと「薄っぺらい表面のみの模倣」でした。今のカメラではわざとやらないとそうなりませんけど、フィルムはTri-Xの増感なので粒子が荒れますし、ブレたりボケたりします。

表現以前に「被写体の選択」も模倣だらけです。今時、喧嘩しているチンピラや酔って寝ている人などを面白がって撮るような悪趣味な人は少ないでしょうが、その頃はそんな写真を撮る人ばかりでした。本で読んだキャパや沢田教一さんなどという、命を賭けて写真を撮る戦場カメラマンへの憧れと劣等感もどこかにあり、平和な夜の繁華街でも武勇伝じみた露悪趣味を生み出すことが好まれたのかもしれません。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。