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構図と情報量:写真の部屋

よく「構図」なんて言いますけど、構図ってなんでしょうか。

これは確かアムステルダムに行ったときの写真だと思います。大きな公園で子どもたちがフリマをやっていました。さて、この写真と構図はどんな関係にあるでしょう。

「ただ真ん中に女の子が立っている」

それも正解です。

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では、それ以外のモノはどういう意味を持っているんでしょう。

彼女は手作りのお店を開き、俺を客だと思って見つめています。「写真を撮ってもいいか」と聞いたら「うん」と答えてくれた直後の一枚です。

なぜ撮ろうかと思ったのかと言えば、色です。緑の木々がある背景、グリーンのジャケット、オレンジの首飾り、赤いバッグ、赤いスタンド、奥にあるオレンジとグリーンのクーラーボックス、サンドベージュの地面。

それらが0.3秒くらいで目に入ってきました。さらに重要なのが濃い影である黒、強い日差しを意味していて、それぞれの色をよりソリッドに縁取ります。

情報としてオレンジが多用されていることから、「これはナショナルカラーがオレンジである、オランダである」と納得できます。オラニエ(オレンジ)は、オランダ建国の父、オラニエ公ヴィレムにちなんでいますよね。

「状況の行為」で言うと、彼女が店を出しているという全体の描写が必要なので引いて撮っています。これは報道写真、ドキュメンタリー写真の撮り方に近く、どこで誰が何をしているかを説明しています。

さらに大事なことがあります。

それは「私はどこに立っているか」です。これは厳密には構図の話ではありませんけど、自分が精神的・物理的の両面で、立っている場所を決めることでしか構図は決まらないのです。

相手が子どもだからと言って視線を下げてしまうと、媚びた写真になります。よく子どもの写真を撮るときは視線を下げましょう、という典型的で単純なアドバイスをする人を見かけますが、それは「子どもを写している」という大人の考えから生まれているので、合わせてあげるという傲慢さに繋がってくることがあります。

「女の子が立っているだけ」という写真にも、あらゆる撮り方や情報量があると感じてもらえたでしょうか。

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スコットランドの港町で撮ったモノ。こちらは顔が見えていません。顔が見えていない写真は、物語を想像させることに繋がります。何を考えているのか、誰かを待っているのか、楽しいか、さびしいか。

それを想像している間、見ている人の目は写真の上をさまよいます。説明が少なく情報量が多いと、写真を眺めている時間が長くなるものです。

「CANCER RESEARCH」という言葉がちょっと怖いし、全体にグレーと青しかないので、楽しくは見えてきませんね。

ちなみに、報道写真でない限り、写真に写る文字はビジュアルにカウントしない、と考えています。それは写真を見る人が努力しなくても「読める情報」だからです。看板の前で撮った記念写真にはその目的があります。

読める情報は文字だけに限らず、「笑顔でピースサイン」をしていたりするのも限りなく言語認知情報に近いので、俺はそれを撮りません。

こういうことを書いている「写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。