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メキシカン・フィルター:写真の部屋

ハリウッド映画などで、たとえばNYからメキシコに行ったとき、映像のグレーディングが黄色くなるという問題。これはなかなか具体的に気づかなかったけど、根深いなあと思った。

時間を伴う映像には「理解の速度」というのがある。映像についての最低限のルールを知っていることを前提に書くけど、観ている人の理解の速度に合わせて映像は編集される。アマチュアが作った映像がまったく観ていられない理由がここにある。

その例で言えば、主人公がNYから「文化の違うメキシコ」に移動したという事実を容易に理解させるために、画面の温度感、強い光を感じさせるためのコントラストなどを変化させるのは当然の技術と言っていい。ただそこに、「文化的に劣等である」というような典型的差別表現ができあがっているのではないか、というのが「メキシカン・フィルター」という問題。

アメリカ映画に日本の風景が映ったときに、ジャーンと銅鑼の音が効果音として使われるのと似ている。あれはどちらかと言えば中国のイメージだけど、そんなことは彼らにはお構いなしだ。オリエンタルな雰囲気が出ればいい。かく言う日本でも、テレビでアフリカの映像が映し出されれば打楽器のBGMを使うよね。

つまり、典型的な表現で「ここ、アフリカね」とわからせようとする無知とサボりがあるということ。確かに俺がメキシコとテキサスがわかれている国境地帯で見たのは、アメリカ側はLEDや蛍光灯の青緑の光、メキシコは白熱灯の暖色で照らされている夜景だった。でもそれを民族の劣等を表現する後押しにしてはいけないということだ。昼間は色に違いはないし。

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天使を白く、悪魔を黒く表すことを歴史的に決めたのはWASP的白人社会で、それは白黒つけるべきすべての場面で、黒=ダメなモノ、という刷り込みがなされてきたのと同じだ。

俺が写真で変化をつけるときは、光の強さしかない。つまりコントラストで、モロッコやテキサスでは影が強く出るし、パリやロンドンではコントラストが低いという自分のインプリンティングに影響されることはある。でも、そこに砂埃が舞う多湿で猥雑な場所、というグレーディングをしようとは思わない。

誰にでもわかる雰囲気を見た瞬間に感じさせようというのは、商業映画のテクニックとしてならまだわかるけど、それが正しいと思ってやってしまうのはあまりに雑だよね、という点で勉強になる。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。