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念写するなよ:写真の部屋

写真を撮り始めてわかったのは、「嘘をついて自分を大きく見せられないこと」だ。

写真はそこに行って、その瞬間にそこにいた人、あったモノしか写せない。行ってない場所は写らず、会っていない人は写らず、ないモノは写らない。当たり前のように聞こえるかもしれないけど、これにつきる。

自分が体験していないことを語ってみせるほど幼稚でバカバカしいことはないから、最初に「私の想像ですが」と注意書きをしておいて欲しいくらいだ。ネットでよくあるのが、誰でも手に入るググったパーツで自分に都合のいい「推論」をしてみせたような言説で、議論していても知らないことがあればググりながら対応しているのが手に取るようにわかる。

クリエイション、たとえば小説や絵や詩などは作家の脳の中を提示する方法だから、そこに対象物や実体は必要ない。これは人類の叡智の最たる領域だからいいんだけど、実体があるモノを評価・批評するときにそれを見た経験がなく発言するという姿勢は恐ろしい。

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写真家のクリエイションで言えば、都内のスタジオであろうともフィールドワークだから、そこに存在しないモノの「念写」はあり得ない。

実体験を含まない、少ないパーツをつなぎ合わせてしまうとニューロンやシナプスがおかしなつながり方をしてしまう。簡単に言えば嘘の結論を作ることができる。北海道と沖縄を撮っただけで日本は描けないし、47都道府県を撮ってもその解像度は大して上がらない。だからできるだけ大きな数のサンプルを持つことだ。

私はグルメです、という人が牛肉と鶏肉しか食べたことがなかったとしたら、「豚肉を食べたこともないのに、よく言えるな」と誰でも思うだろう。ポール・ボキューズが豚肉のことを言っていましたが、と言っても何の説得力もない。まずは47都道府県を撮ってから、自宅の近所の団地を撮ると、まったく違うモノに目が向くだろう。それは最初に自分がボーッと見ていた団地が、東北とも山陰とも違うんだなと理解したからだ。もちろんバンコクとホーチミンとも違うことが、おいおいわかる。

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写真の部屋

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。