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ヤギさんへお手紙書いた。

ヤギワタルくんがTwitterで、「批評家の必要性」について書いていた。俺はあまり必要だと思っていないので、そうリプライした。140字では到底書けない内容なので、「noteに詳しく書いて」とお願いしておいたらアップされていた。

ヤギくんの丁寧な説明で概要はわかった。批評家によって創作の世界がひらかれたり、作家が進化する可能性があるというのは納得できるし、批評にとどまらずに創作に転じる人がいるのもわかる。よき創作者は批評家の資質を備えることがあるというのも理解できる。

俺が感じているのは、ヤギくんは「補助線」と書いていたが、知識のない鑑賞者(作家本人を含む場合もある)に対して、作品の見方を提示する、ってあたりの違和感が一番大きいのかもしれない。

鑑賞に誤解や無理解はつきものだと思うんだけど、観光ガイドが「ここが絶景の撮影ポイントでございます」と言われたら俺はそこで撮らないと思う。もしかしたらそこを自発的に撮っていたかもしれないけど、言われたら撮らない。そのタイミングでの助言を「補助線」だとは思えず、むしろ自由な誤解あふれる受け取り方を阻害されたと感じるから。

これは俺がどちらかというと鑑賞者ではなくて創作側にいるからかもしれないんだけど、ヌーベル・バーグが批評家だけによってもたらされた革新なのかはよくわからない。旧来のスタジオシステムから自由になるタイミングと原因は批評家以外になかったのかが証明できないからだ。

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作家自身のステートメントが批評家的になることの弊害も感じる。自分の好き嫌いでしか言わないけど、俺はプリミティブな衝動で作られるモノが好きで、「現代アートの文脈から」と観光ガイドに言われると聞く気がなくなる。映画も音楽も文芸も、ニッチを探してストラテジックになりすぎたモノに対しては「わかるけど、それやってて楽しいのかな」と感じてしまう。

批評とアートが混ざり合って生まれる気色の悪さだけをあげつらう気はないんだけど、見てわからないモノ、読んでわからないモノに手軽な説明と種明かしを求める鑑賞者は、わからないことの価値を感じて欲しいと思う。

自分が写真展をやってみて、観る人は理解したくてたまらないのだということや、自分の見方は間違っていないかを当の作家に確認したい人ばかりなのだと理解できた。アート全般というとザックリし過ぎているけど、自分が想像し得なかったモノを目の前に提示されたとき、発見や理解や断絶を感じることが豊かだと思うので、それは家に帰ってお風呂に浸かっているときに、「あれって、もしかするとこういうことだったのかなあ」とボンヤリ考えるだけでいいと思っている。

そこにある種の美術的な文脈や腑に落ちる理解に補助線付きでたどり着くのは、刺激がもたらす鑑賞の時間を短くしてしまうような気がする。

俺は過去に批評家ではないけど、見る目が確かなたったひとりの人から言われて、ヤギくんが言うように作る側の目を開かれた記憶がある。でもそれはただの幸運で、やる気がそがれる批評の方が数千倍多い。それを害悪と感じる自分がいるので、たったひとりの理解者がいたことを手放しでは喜べない。

理解者というのはもちろんファンのことではない。何をしても肯定する人の意見は耳に入らないし、自分はこれに対して独自の受け取り方をしていると自己主張をされれば「じゃあ、お前がやれよ」と言いたくなる。

その理解者と呼んだ人は、俺が写真を撮った時の無意識に近い衝動や、これからどうしていこうかと霞がかかった状態で見ていた景色をすべて言い当てた。恐ろしかったんだけど、この符合はたまたま俺とその人の感覚が近かったから生まれたのであって、その人は他の人の作品を同じレベルで批評できないかもしれない。

創作者が自分の創作意図を精密に言語化できないことについては『ロバート・ツルッパゲとの対話』に書いたので、出版されたら読んでみて欲しい。

ヤギくんのnote
https://note.mu/yagiwataru/n/n5165ecd4b06d







多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。