私のママは世界一方式。
何でもすぐに、「一番うまい」「一番スゴい」と言う、バカの知り合いがいた。
数字の「1」というのは最上級を表している。英語ならbest。それは当然誰でも知っていると思うんだけど、浅はかさプラス口癖でそう言ってしまう人がいるのを知った。
誰かと一緒にいるとき、「最高に楽しいね」と言われたらうれしいだろう。でもその人が何を聞いても、何を見ても、コンビニのファミチキを食べても「最高」「一番」と言うのを知ったら、その「最高に楽しいね」は、何の価値も持っていないことになる。
だから知性ある人は、最高なんて軽々しく言わないものだ。明日食べるモノが今までの人生で最高の食事かもしれない。そうやって注意深く思っていると「最高」は簡単に出てこない。
「感激屋さん」というのもいる。それが10代の子どもなら可愛げで済むかもしれないけど、選挙権を持っていたらそう見てはもらえない。30代になってもカワイイ、カワイイと言ってあたり構わず騒いでいる女性を見ると、「目尻のしわにファンデーションが固まっているところもカワイイよ」と、意地の悪い誰かに言われるかもしれないから要注意だ。俺は言わないけど。
無知であるからこその「最高」もある。生まれて初めてチーズフォンデュを食べた人がそう言っているのを聞いたことがある。「このチーズフォンデュ、最高ですね」と言うから、へえ、と思ったんだけど、話を聞いてみるとチーズフォンデュを今日初めて食べたという。
これは違うだろ。相対的な評価は不可能なんだから、自分の絶対的な感覚として、「このチーズフォンデュは美味しいですね」もしくは「チーズフォンデュって美味しい食べ物ですね」が正解だ。
もっとひどい人になると、ここでたった一度だけチーズフォンデュを食べたことで、「スイス料理って最高ですよね」とまで言う。もちろん他のスイス料理をひとつも食べずに、だ。言葉の定義が細かいよ、という反論はあるかもしれないけど、そうじゃない。
それしか知らないのに、知っているように「盛っている」場合があるからあくどいのだ。
以前、デート中のカップルがイタリアンの店にいた。彼氏が「俺、スパゲッティにしようかな」と言うと、彼女が「えー、パスタって言ってよ、恥ずかしい」と言ったのだ。そこにイタリア人がいたら、ヴェネチアングラスの軍配を彼にあげるだろう。
スパゲッティを「ざる蕎麦」だとすると、彼女が言うパスタは「麺類」もしくは「小麦粉でできたモノ」のことだ。さっきの会話を翻訳すると、「俺はざる蕎麦にしようかな」「えー、麺類って言ってよ、恥ずかしい」になる。恥ずかしいのはどちらかわかると思う。無知は仕方ないとして、この場合の恥ずかしさは、知らない人が「教える側」に立っているという滑稽さだ。
あと、昔、クライアントにフランスの大学を出た女性がいた。その人は何かというと「私がいたヨーロッパでは」と言うんだけど、よく聞いてみると、ドイツとベルギーにしか行ったことがなかった。え、それで「私がいたヨーロッパでは」って言っていたのか、と俺は驚いた。全体を語るにはサンプルが少な過ぎるよ。
その幼稚さは、「私のママは世界一方式」と呼ばれる。自分が知っている、見たことがある少ないサンプルを基準に、他人のママの存在すら知らないで幼稚園児が言うこと。大人がそれを言ったら無知だと笑われる。
「世界で一番ママを愛している」ならいいんだよ。誰とも比較できない唯一の存在だから。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。