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書けることだけ、書けばいい。:Anizine(無料記事)

「昨日、コンラッドでランチをしていたら、私がコロンビア大学で美術史を勉強していた頃の友人と偶然会った。彼女はNYで年商20億ドルの会社を経営しているアメリカ人と結婚しているが、休暇でコンラッドに泊まっている。一泊50万円くらいするみたいだ。前回は何年くらい前だっただろうか、私がNYPのオフィスで働いている知人に誘われてリンカーン・センターで会った。監督はアラン・ギルバートだった気がする。彼女とパートナーはこれから日本人の有名なベストセラー作家と『鮨さいとう』に行くのだという」

固有名詞はすべて変えていますが、あなたの知り合いにこういう人はいないでしょうか。私ならこの出来事をどう書くか。

「昨日ランチをしていたら、私がアメリカにいたときの友人と偶然会った。彼女はアメリカで家庭を持っているが、休暇で日本に来ているという。前回彼女と会ったのはNYフィルのコンサートだったと思う」

かなり短くなりましたね。では、彼女の文章はどうして長かったのでしょう。それは無駄な修飾が多いからです。読んでいる人にとって不要な固有名詞は省く。それだけで文章は短く読みやすくなります。そもそもこの人は世の中の評価軸において「羨ましい」と言われることを主眼としていますので、パートナーの年商やホテルの値段、NYフィルで働く知人の情報、「鮨さいとう」を織り込んでしまうわけです。

これを読んだ人は多くの情報を受け取りますが、まったく伝わらないことがあります。それは何でしょう。

『彼女が何をしているのか』です。

自分を取り巻く、庶民にとってはきらびやかな情報を具体的に並べているにもかかわらず、自分の存在に関わることが一切書かれていません。唯一、美術史を学んでいたことくらいでしょうか。このように「私」というものを構成する要素として他人の名前などを持ち出して利用する人は、いくらそれを隠したつもりでも他人からはすぐにわかってしまいます。特に、お金の話が2回出てきますけど、なぜそれを書くかと言えば、自分は一泊50万円の部屋には泊まらないし年商は20億ドルもないからです。

自分が書くこと、言いたいことが「他人の情報」になりがちな人は気をつけた方がいいです。いくら大谷翔平が活躍して大リーグ最高年俸をもらおうと、あなたの銀行口座には何の関係もないし、よく大谷が来るという店の常連であっても、大谷の兄弟の友だちの親戚が同級生であっても、まったく関係ない。有名な寿司屋も料金さえ払えば誰でも行くことができます。客というのはただ消費する人ですから。

つまり、この人が価値だと思っている表面的で下世話なモノを、他人も羨ましいと思うだろう、という浅ましいスタンスです。こどもの頃に言われたことがある人は多いでしょうが、「他人は他人、自分は自分」であり、誰が何をしていてもあなたには何の変化もありませんし、関係ありません。

ちなみに、この記事のタイトルは「元電通の優秀なコピーライターで著書が17万部も売れている出版社を経営する友人」の書名からパックンチョしました。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。