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家庭用と業務用の言葉。

ブリゴキには、家庭用と業務用がいる。黒くてデカいのと、薄茶色くてカラメル味の方。俺はカミングアウトしちゃうけどブリゴキが苦手なんです。人生の中で積極的には関わりたくないと思っている。駅を出た瞬間から脱線しましたけど、本題は「家庭用と業務用」について。

8年くらい前、「音楽をやっている人は面白いことが多いが、コピーライターの言葉のセンスは業務用だから、あまり面白くない」とTwitterに書いたことがある。本来なら同じ業界にいる人のことをそう言ってはいけないんだろうけど、無神経を装い、カジュアルに書いた。

ほぼ無視されたそのツイートに中村勇吾さんからのRTがついたとき、「ああ、そう思っている人は他にもいたのだ」と目的を達成した気がしたことを憶えている。自分が信頼するセンスの持ち主が認めてくれればそれだけでいい。

広告のように目的のある伝達には速度や効率が必要だから、ソリッドかつギミックフルネスな言葉になる。とことんスムースであるか、引っかかりのある言葉でも引っかけるための人工のトゲが仕込まれている。「面白くない」と表現したのはそこで、裏に仕込まれた思惑がわかる言葉には感動しにくいということだ。

若い頃、秋山晶さんに銀座のバーに連れて行ってもらったことがある。俺はアメリカ文学みたいな秋山さんの洗練されたコピーがとても好きだったから、それまでずっと思っていたことを聞いてみた。

「小説を書こうと思ったことはないんですか」と。

一度でも会ったことがある人ならわかると思うが、秋山さんは決して言葉を言いよどんだりしない。えー、とか、あのー、などと言うのを一度も聞いたことがない。紙に書かれた完璧な文章を読むように話す。

「ないです。自分を表現するための文章には興味がありませんから」

それを聞いて、やはり秋山さんはプロフェッショナルのコピーライターなんだなと感じ、でもいつか広告コピーではない文章も読んでみたいと思った(ちなみに、秋山さんの仕事以外でする世間話はとても面白い)。

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ロバート・ツルッパゲとの対話』は哲学を入り口にして、生き方と言語の関係にかなりのページをさいたが、そこでは業務用どころか、家庭用よりさらに原始的な言葉を使うことを心がけた。

オタクはオタク用語を使うし、政治家は政治家用語を使う。業務用の言葉を使う意図は、「私の本心を語ってはいない」という保険の役割がある。このクルマのデザインやエンジン音がカッコよくて好きだ、とクルマ好きが友人と語る言葉と、自動車メーカーが売るために広告に使う言葉はまったく違う。

だから、どんな場面においても「その人の本心を扱う感覚の言葉」だけに耳を傾ける。そこにしか感情は存在しないと思っているから。だから広告で過剰に感情を揺さぶろうとする試みには萎えることがあり、プラスチックで作ったクリオネを見たような思いになる。カタチは似ているが、柔らかくないのだ。

英語が話せないくせに、アジェンダがアグリーしないからリスケする、みたいに気持ち悪い言葉を平然と使う人は、同じことを田舎のおばあちゃんに言ってみるといい。おばあちゃんクラスタがそれらの言葉をコモディティ化していることはまずないだろう。

つまり「自分は特殊な内側にいるのだ」ということに外側からの客観的な目が持てなくなったとき、発言は他人に対して業務用になる。

正月に帰省したときおばあちゃんは大きくなった孫をいまだに子ども扱いして、家庭用の言葉で出迎えてくれるだろう。「お雑煮、食べなさい」と言う。そこでおばあちゃんに、「ふるさとは、お雑煮の味がします。」なんて言われたら、「お前、ホンモノのばあちゃんじゃないな。コピーライターだろ」と背中の電源部を探すよね。

何の話やねん。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。