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ジブリの烙印(東小金井村塾篇・その1~はじまり)

【ぼくがジブリに雇われるきっかけになった、ジブリ主宰の若手アニメ演出家養成塾『東小金井村塾』のことを書いていきます。】

【今回のあらすじ:ぼくは『東小金井村塾』への応募原稿を書いていた。それは自分の自主制作映画を撮影の最中のことだった。】

1~はじまり


その運命的な八百字の応募原稿を、ぼくがどれほどの覚悟を秘めて書いたのか、今となっては不確かだ。

大学三年生の終わりの春休み、ぼくは青梅の宿泊施設付の研修センターにいた。
二段ベッドが並ぶ八人部屋の一室で、仲間たちがとうに眠っているなか、もうすぐ朝があけそうな時間の中、ぼくは机に向かって応募原稿の最終直しをしていた。

手書きで原稿用紙のマス目を埋めていた。
八百字指定の短い応募原稿だったが、コンパクトに表現をまとめるのに苦労して、何度もぼくは書き直していた。

まだパソコンが普及せず、ワープロが主流の時代だった。
1995年の2月だったか。

ぼくは青梅へ来るにあたって、8ミリフィルム用の撮影機材を沢山携行していたので、重く嵩張るワープロマシンまでは持ってくる余裕がなかった。
まだ手書きの原稿が珍しくない時代だった。

朝方、応募原稿にようやく見切りをつけた。
封筒に入れて自分の下宿の所番地を書き込むと、そのまま部屋を出て研修施設の出入り口で備え付けのつっかけに足をつっこみ、とぼとぼと施設の敷地を歩き、公道へ出ると、さほど遠くないところに郵便ポストが待っていた。

ぼくは封筒をポストに入れた。
念の為ポストの脇に記された回収時間を確認する。
まあ大丈夫だろう。
今日の消印がつくのだから、締切には間に合うはずだ。

ぼくが書いていた応募原稿とは、映画についての感想文だった。
指定課題は『わたしの感動した映画』。
しかし『感動』という言葉に違和感をいだき、『わたしの印象に残った映画』と勝手にタイトルを変えて書き進めていた。
指定タイトルを変更して予選から落とすのなら、落とすがいいさという気分だった。
傲慢だったからでなく、それほど大した執着を感じていなかったのだ。

2~撮影中の応募


実際ぼくは、その応募原稿にさほど思い入れがなかった。
ひとまず締切に間に合わせて郵送できて、『ひと仕事終えた』、くらいの気分だった。
そのときのぼくの念頭にあったのはむしろ、この青梅で続いている8ミリ映画の撮影のことだった。

ぼくは気心の知れた仲間たちに協力をあおいで、この青梅の施設で四日間泊まり込みをして、8ミリフィルムの映画を撮っていたのだ。
大学生ふたりを主人公にし、この青梅の施設を大学寮に見立てた設定で、映画を撮影していた。

この施設とその周辺で4日間撮影すれば、映画の7割方の撮影が終わるよう、ぼくは計算していた。
ぼくが監督をつとめる映画だった。
この映画の制作のために、ぼくは三ヶ月昼夜ぶっ通しのホテルマンのバイトをして100万円ほど稼いだが、そのほぼすべてが機材やフィルム代にあっけなく消えた。

青梅の宿泊代は頼んだ仲間たちにそれぞれ自腹で来てもらっていた。
その折り合いがつかず、降りた仲間もいた。
それならそれでいい、ぼくと思った。
ある程度の無理を聞いてくれる者でないと一緒に映画はつくれないと、前作の頓挫した映画でぼくは学んでいた。

前作の8ミリフィルム映画撮影では、長期拘束を厭うて中途半端な段階で降りた主役や、うるさく口を出してきて撮影を中断させる先輩などの存在のために、この作品の撮影は中止を余儀なくされた。

しかし今度の作品こそは必ず完成させる。
そのためには絶対服従するスタッフ・キャストが欠かせないとぼくは思っていた。
そのための隔離するような青梅の合宿でもあった。
撮影が始まったこの2日間、スタッフの段取りの悪さや指示の通りの悪さに対して、ぼくは暴君として振る舞った。
率先して動き回り、思い通りになるまで粘り通した。

ぼくは外面には出さなかったが、しかし絶えず心細さと闘っていた。
何の頼りもなく自分の意志を押し通すことに不安があった。

暴君の頼りなさを、後にぼくは、ジブリで宮崎さんや高畑さんの立ち振る舞いに見出すことになるが、それもこの無理な合宿撮影の経験がネガのように効いていた。

3~応募要項、偶然の発見


青梅の撮影合宿が終わり、残りの撮影を都下でぼちぼちと続けていた3月、通知が届いた。
あの撮影合宿中の朝に投函した、映画感想文の返事が来たのだ。
感想文は一次選考を通過、面接を行うのでいついつにジブリに来たるべし。

ぼくが応募したのは、ジブリでこの4月から行われる、若手アニメ演出家養成塾『東小金井村塾』入塾試験だった。

塾長はアニメ界随一の理論家・高畑勲監督。
その募集広告を新聞の片隅にみつけたのは偶然だった。

もしこの応募が5年前、10年前だったなら、ぼくはどんなに狂喜したことだろう。
しかしぼくがその記事を見つけたときは、しらじらした気分だった。

ぼくは十代の頃、熱心なジブリの崇拝者だった。
中学・高校生のあいだ、ぼくはジブリの作品のポスターをいくつも部屋に貼っているほどのファンだった。

あの波乱とドラマに満ちた世界がスクリーンの向こうに確かにあるというのに、ぼくの現実はなんと心寂しいものか。
ベッドに横たわりながら十代のぼくはポスターをみつめ、いつまでも空想の世界を夢想していた。

だが大学に入ってから映画サークルに属して、異質な映画文化にぼくは一気に呑み込まれた。
サークルの仲間の教養に負けまいと、毎日映画館に通い、世界中の映画を古今を問わず浴びるように観た。

その結果、ぼくのなかのジブリの存在はいつのまにかずいぶんと小さいものに変わっていた。
まだたかだか百年の歴史しか持たない映画が、花咲くように展開しきった多様な可能性を、存分に思い知ることになったのだ。

ぼくはそうなってみると、ジブリの提示する世界観が、なんだか他愛もないものに見えていた。
そして同時にぼくは、自分にしか作り得ない映画のヴィジョンをはぐくんでいた。
それを実現しようと8ミリ映画の制作にとりかかった。

だからそんなときにジブリのアニメ塾の応募を見つけても、これは自分が応募するべきものか、しばし考えてしまった。
それほどに、ぼくのなかでジブリの存在は、この大学生活三年間の間に軽くなってしまっていた。

4~不埒な動機


それでもぼくがジブリのアニメ塾に応募しようと思ったのは、塾長が宮崎さんではなく理論家の高畑監督だったからだ。

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