労働について、残業について~ジブリ私記23
夢で半睡して床に寝そべっている自分がいて、気配からそれは昔住まっていた実家の大テーブルのすぐ近くにあるらしいと思い、その席にはぼくがかつて知り合ったジブリ時代のアニメーターたちが座っていて、小声でささやき合っているのが聴こえる。
――偉そうに、ジブリを名乗ってさ。
その会話を聴きとっていることをさとられてはいけないと、ぼくは寝そべった姿勢を身じろぎすまいとしていた。
そんな夢を最近見た。
実際、そんな気おくれは目が覚めているときでも、ある。
この、ジブリと大した関係はないぼくが、ジブリという名称を冠した文章を書いてもいいのか、と。
とは言いつつ、この続きものは、ジブリに関係した者の誰にも真似ができないような、実は文章的に挑戦的な試みをしているという自覚はある。ただジブリに関わったひとで、この価値に気づけるだけの人物は、ほぼいないだろうという絶望もあるのだが。でも、その希少性があればこそやれているというのも確かなのだし。
1~労働を学問する(前歴について)
おそらくぼくのプロフィールに詳しいひとはいないだろうけれど、ぼくはジブリを辞めて大学院に進んだとき、それは文学部だったのだが、研究対象を決めなくてはいけなくて、ぼくは「古井由吉」という現代作家を対象に選んだ。それは古井由吉が1960年代末に書いた短編小説「先導獣の話」を、ジブリで働いていた当時のぼくが読み、数ある散文のなかで唯一リアルな「労働を描き得ている」と思えた文章だったからだった。
テーマ設定の柔軟性があるので、実学でなく文学の大学院に進学していて、一応研究対象を「古井由吉」に選んだものの、その「隠し研究テーマ」が「労働」であり、そんな選択をしたのもジブリで働いたからだったというのは、いま初めて告白している。
しかし大学院は新しい時代に突入していて、「成果主義」が導入されつつあり、悠長に労働について考えている暇はなく、とりあえず研究成果を出すため、古井由吉を手掛かりに論文をいくつか発表することになって、結局は「労働」のテーマだけはうまくこなせないまま、それは手つかずのまま、大学院の博士課程を満期退学せざるを得なかった。
ちなみに言えば、古井由吉は何年か前に大往生を遂げて、しかしその後も遺文集がいくつも出されているように現在でも評価の高い作家である。
それでも古井はその初期(1970年前後)と後期(1990年代~)ばかりが注目されて、中期(1980年前後)が評価の対象としてはすっぽり抜けていて、ぼくが研究していたのはその中期だったのが興味深い。
まだ研究テーマとしての古井をぼくは抱えていて、初期から中期への橋つなぎと、中期から後期への橋つなぎをする仮説がぼくのなかで生きていて、時間と準備が整えばどこかの学術誌に投稿したいと考えている。
2~残業というテーマ
しかし大学院に進学した理由だった「ジブリで働いていて覚えた労働というテーマ」は、研究テーマとしてはほとんど興味を失っている。「労働」に関わる認識とその発表の場は別の形として実りつつある。
というか、この「私記」自体がいささか「労働を描く」実践・実験の場になっている。
前回の「22~夜の大人たち」のように、スタジオの夜の独自の雰囲気や、そして視点が移って作画の指パラの動作のことを描いてみるなど、結構自由なことをやっていて、どちらも立派な「アニメの労働」を描いている。
それは確かにまだ「試み」という手探りの状態でやっている側面は強い。
それに夜のジブリの労働の光景を引いた眼でみると、「深夜の残業代って、ジブリの場合、どうしてたの?」という分かりやすい「労働問題」につながる。
でも、ぼくは「定時を過ぎた労働」に関してはまだまだ認識が追いついてなくて、アニメーターの労働って「歩合」にすれば解決する問題ではなくて、「裁量性」といってもまだ正確ではなくて、「創造性が問われる労働」って「どうしても伸び縮みする労働」なのではないか?ととりあえず言っておこう。
そういう「時間的に伸びたり縮んだりする」労働に対して「適正な対価って何だろう?」という正解がぼくの中にまだない。「それ」が自分の中ではっきりと見えない限りは安直に「残業代はどうなってるの?」とは言いたくない自分がいるのです。
そういうことを含めての、言葉に出来ない思いも込めて、例の給与明細の図像をただそれ自体としてツイッター上でアップしたりしたのでした。
もうちょっと言葉を足すと、アニメーターがひとつのカットを仕上げるのに苦慮して、定時を過ぎてもスタジオにいる。契約の場合、歩合なのだろうから、そのカットひとつを単位にしてお給金をもらっているから時間に左右されず給与は一緒です。
一方、正社員は月給でやっていて、(もののけ姫当時は)残業は出ていなかったはずで(とさらっと言う)、時間をかけるほど金銭的には損をしている。
しかしどちらの給料制にしても、時間をかけず可能な限り短時間で仕上げれば問題はないはずだ。むしろそれが効率的にも望ましい。
それをわざわざ時間をかけてカットを仕上げてしまうのは、流行りの言葉で言えば「やりがい搾取」ということになってしまうのだろう。
じゃあ、時間をかけた分、余計にお給料が発生するようにしたら「やりがい搾取」はなくなる、となって問題は解決するだろうか。
しかし実際のところ、「やりがいを満たした」作画作業はあるのだろうか。
時間をかけただけお金が余計に発生したとしても、アニメーターが「やりきった」ものになることは少ないと思う。
いつもどこか悔いが残る。
だから皮肉なことだが、アニメーター本人としても「時間に追われた結果、何とかやりきって、少し悔いは残るが、仕方ない」ぐらいの出来上がりが「ちょうどよい」だったりする。
「時間が限りなくあるからって、満足できる仕事ができるとは限らない」という妥当な真理がある。
だから「やりがい搾取」といいながら、「そこで言う、『やりがい』って(アニメーターの場合)本来満たされるものなの?」という大前提を壊す素朴な疑問がある。
業種によっては「やりがい」は環境が整備されれば満たされるものがあるかもしれないが、「やりがい」というものは常に「向上心」と一体化しているものなので、「基本的に天井がない」。アニメーターだけでなく、介護職や保育士だって「天井のない・やりがい」のある仕事のはずだ。
だから(おそらく)「やりがい搾取」という言葉には「嘘が混じっている」。
介護の仕事は(おそらく)時間が決まっていながら、やることがたくさんあるので、「どう省略化するかの美学」があり、だから「本当ならもっともっと」というタイプの仕事であると考えられる。
アニメーターの仕事は(締め切りに追われないよう、あらかじめ余裕をもって始めた)面倒なカットを手がけるとき、(その初めの段階は)「どこまで仕事の複雑さを展開していくか」という塩梅を考えることで「仕事(にかかる時間)が伸び縮みする」そういう仕事だとぼくは考えています。で、定時があるスタジオに所属する場合、何時まで定時を超えてよいかまである程度考慮しているはずです。だいたいにおいてアニメーターさんは複数のカットを抱えていて、それぞれに難易度が異なるので、それぞれのカットを仕上げる加減も「伸び縮み」させて考えているはず。
しかし「伸び縮み仮説」でここまで記述を押してきたものの、アニメーターの仕事がだいたいにおいて「定時を超えてやってしまうもの」になる要因はまだあると思うのです。
おそらく「アニメーターの残業」問題には正解はなく、たとえば時間に応じた給与を払うという太っ腹な案がたとえ成立したとしても、アニメーターが作業しながら『もやもやしたまま制作さんにカットを渡す』感じはなくならないと思うのです。
だから「やりがい」とは本質的に「疎外」なのです。
「疎外」とは、「本来『こうあるべき』だけど、そうなっていないので不満に思う」ことです。
しかしアニメーターさんたちに『本来こうあるべき自分』について問われたら、「正解はないっすよ」と言えるぐらいの自覚はあるだろう。
それに対して「搾取」とは「本来もらえるはずのものが、もらえてない」ことです。
つまり「やりがい」も「搾取」も「『本来なら』こうであるはずなのに、そうなっていない」という問題意識があるのでした。
つまり二重に『本来性』が問われているのであり、「やりがい」の『本来性』は「向上心」として永遠に終わりがなく、「搾取」の方の『本来性』も「終わらない向上心」への「未払い問題」なので、理屈で言えば「終わりのない未払い」に対処することであり、詭弁を弄しているようですが、「やりがい搾取」は「問題の立て方として間違っている」。
それだったら、ネトフリの黒船来航で、アニメ業界の給与水準がひと桁かふた桁繰り上がるのを積極的に受け入れる方が「四の五の言わず」いろいろやりやすくなるのではないでしょうか。
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