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『なぜ、「怒る」のをやめられないのか』

書籍紹介です。

怒りは自然現象。その存在を認めよう。

書店には、「怒りを解消する方法」などと銘打った何冊もの本が並んでいる。日本においてはことさら怒りは表に出さず、理性的、論理的であることが美徳とされがちである。

ところが、「抑圧されたものは回帰する」とフロイトが言うように、心の奥にしまい込んだ怒りは、時を経て別の形で表に現れる。

怒りが積もり積もって突然それが暴発すれば、キレたり壊れたりする。暴力や裏切りという破壊行為として。破壊行為が自分に向けば、過食、嘔吐、リストカットという自己破壊として。

怒りの抑圧が、心身症にもつながる。病気は、あの手この手で意識の中断を図る。肥満、摂食障害、自傷行為を通して、怒りによる緊張からの一時的な解放を図る。痛みなどによって、ごまかす。

怒りを感じない人生はあり得ない。怒りは自然現象であり、台風や地震と同じで消えやしない。うまくいかないことがあったときに怒りが出てくるのは自然な反応であり、むしろ、自分および自分の周囲で何かがうまくいっていないということを示すサインである。その存在を消したり否定したりするのではなく、認める

認めるにはまず自分の感情を感じ取る能力がベースになる。心の中に潜んでいるものを意識化して言葉にする。その上で、適切に(人間関係を壊さないやり方で、周囲の人に理解・容認してもらえる仕方によって)、冷静な主張として放出して、緊張を和らげる。

間接的に怒りを表現する人々

怒りや敵意をこそこそ間接的に表現する人がいる(本書のサブタイトルにもある「受動的攻撃」)。遠回しな攻撃、たとえば、忘却を装ったミス、ハプニング、遅延は、「覚えておくほどのことではない」というメタ・メッセージを送ることで、暗に敵意を表明し、相手の不安、罪悪感をかきたてるのだ。

また、結婚祝いにナイフや包丁をプレゼントする、名は出さずに誰にでもわかるやり方で非難をする、といった陰湿な嫌味も、怒りや敵意の間接的表現に該当する。相手がもっとも戸惑い、不安、恥ずかしさ、屈辱、自責、落ち込み、憂鬱を感じる方法で攻撃してくるのだ。明らかにわざとらしくても、本当にわざとかどうかが確認可能な既成事実は存在しないのが、邪悪で巧妙な点である。わざとだと決めてかかればかえってこちらの分が悪くなる。防戦のしようが無く、実害を避けることに注力すべきだ。

こうした遠回しの攻撃や嫌味は、依存願望が満たされない状況に対する「かまってくれ」という主張であったり(ちなみに、犬もわざと冷蔵庫の下にオシッコをしたりする)、ルールや支配に対する無力感の末に選び取られた自己主張であったり、嫉妬するがゆえ他人の努力の無価値化を図る(相対的に自分のイメージアップを狙う)行動・言動だったりする。これは信頼関係を壊すリスクが高く、自分自身を窮地に追い込みかねない行為である。

怒りの適切な伝え方

怒りを口に出せば、ケンカになってしまうかもしれない(めんどうくさい)。他人からの評価を落とすかもしれない(こわい)。それがゆえに、イラっとしても口をつぐみ、やりすごしてしまう。怒りを封印する。

しかし、フロイトが言うように、「抑圧されたものは回帰する」。行き着く先は、暴発、自己破壊、周囲への遠回しの攻撃や嫌味、心身症。

そうならないために、まずは、うまくいかないことがあったときに怒りが出てくるのは自然な反応だと受け止める。受け止めた上で、どう対処するか。

いい人、できた人、人格者、というセルフイメージは捨てる怒りを出してみることからすべて始まる。何も出さなければ、問題は解決しない。怒りを抱えたまま、自分自身が壊れて行く。怒りを放出しても、心配しているほど大変なことにはならない。せいぜい怒ったらこわいと陰口をたたかれるくらいである。

怒りの伝え方
①はっきり、きちんと、礼儀正しく言う。
・状況を確認する(あなたがこうした、わたしはこうされた、ゆえにこうなった、こうなっている)
・いきさつを確認する(うっかりなのか、わざとなのか。どういう意図なのか。)
・自分の怒りを伝え、なぜ怒るのかを伝える。
・自分は相手にどうしてほしいのかを伝える。
②相手の思いを聴く
「自分の主張ばかり言ってしまった。」「いろいろとあなたの思いがあってのことだと思う。」「意見をきかせてくれないか。」
③妥協策を見出す。
自分と相手、相互に妥協できる点を見出す。完全な解は得られないものだとあきらめる。

※この記事は、『なぜ怒るのをやめられないのか』を読みながらバーっと取ったメモに基づいています。メモの時点で自分の言葉と筆者の言葉が混じっておりまして、要するに、脚色・歪みも多分にあるのでその点何卒お許し下さいませ。


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