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なぜ/s/は/r/になったのか?―ラテン語の歴史と子音のr音化現象(ロータシズム)の秘密―

割引あり

1. ラテン語とロータシズム

sとrの奇妙な関係

 ラテン語の歴史を語る上で欠かせない音変化のひとつに(母音間などの)「/s/の/r/音化」がある。
 ラテン語の世界では前1~後2世紀頃の教養あるローマ人の言葉が事実上の標準語(古典ラテン語)として学ばれているが、この言語にはさらに古い資料も存在し、それらの古碑文や語源などの知識により前1世紀より前のある段階母音に挟まれた*sがrに変わった歴史があることが明らかにされている。
 例として古典ラテン語のflōs「花」の複数主格はflōrēs「花々」という形になるが、これは過去に*flōs-ēsの母音間の*sが/r/になった結果が受け継がれているからである。

 音声学的には[s]が直接[r]に至ったわけではなく、中間段階として[z]のステージを経たという解釈が有力で、厳密にはさらに細かいプロセスに分けられ得るのだが、基本的にはこの[s > z > r]の流れを意識しておきたい。

 また他に「母音と/w/の間」などの*sにも同様の変化が発生したといわれており、逆に母音間であっても特定条件下では起きなかった可能性が指摘されているが、それらについては次回補足する。

 [t]や[s]などは発音時に喉の声帯が振動しない無声音、[d]や[z]などは声帯振動を伴う有声音であり、母音や[w]なども通常は有声音に含まれる。
 [t > d]や[s > z]の変化は無声子音の[t, s]が有声音である母音(や一部の子音)の影響を受けて起きるケースが多い(部分同化)。
 典型的には有声音に挟まれた環境、特に母音間で発生する傾向にある。
 (音の分類やその様相については後述の「言語音の属性」を参照)。
 こうした[s > z]がラテン語では[z > r]の推移の前提となったのである。

 なお*は想定上の形を、/ /は音素(個々の言語での音の意味的な区別の単位)を、[ ]は音声(音の詳細な物理的実体)を表す。
 現代日本語を例に取ると、「ザ」の子音は語頭で[dz]、母音の間で[z]に近く発音されることが多いとされるが(条件異音)、日本語ではどちらも/z/という単位として扱われる。これが音声[dz ~ z]と音素/z/の関係に当たる。

 同様にラテン語でも古い時代には音素/s/が語頭や語末などで[s]、母音間などで[z]と発音され、「意味的には/s/だが実際の音声としては条件次第で[s ~ z]」といった実態(相補分布)を示していたと考えられているのである(古典期の/s/は位置に関係なくすべて[s])。


r音化と形態論

 この音変化が重要なのは形態論(単語の屈折や派生)にも大きな影響を及ぼしており、ラテン語文法の理解のためにも注目されるからに他ならない。
 前述のflōs「花」であれば単数主格はflōs「花」、単数対格はflōr-em「花を」、単数属格flōr-is「花の」といった形になるが、こうした変化形に見られるsとrの"形態論的音交替"の起源は本来の*sが維持されているか母音間で[z]を経てrに至ったかの違いに求められる。

flōs, flōr-is, m「花」(第三変化s幹名詞)

単数
主格 flōs「花」
対格 flōr-em「花を」
属格 flōr-is「花の」
与格 flōr-ī「花に」
奪格 flōr-e「花から」

複数
主格 flōr-ēs「花々」
対格 flōr-ēs「花々を」
属格 flōr-um「花々の」
与格 flōr-ibus「花々に」
奪格 flōr-ibus「花々から」

 語源関係のある派生語も同様で、flōs-culus, flōs-cula「小さな花」のsに対するflōr-eō「花が咲く」、flōr-idus「花盛りの」、Flōr-a「花の女神フローラ」などのrの対応もそうした音環境の違いの反映結果に他ならない。


r音の広がる世界へ

 このように他の音がr系の子音に変わることを言語学では「ロータシズム」(rhotacism)と呼ぶ。
 初見では珍しい現象のように感じるかもしれない。
 しかし意外にも実際には世界中でよく見られるごく自然な音変化である。

 実例としては特に[d]や[z]がr系の子音に変わるパターンが有名で、位置環境としては母音間(を含む有声音の間)語末に現れるケースが多い。
 加えて[t > d]や[s > z]のような無声子音の有声化も世界的によく見られる現象であるため、言語によっては全体として[t > d > r]や[s > z > r]といった流れが想定され得るのである。
 古典期以前のラテン語のような[z]のr音化はかつて英語(あるいはその祖先段階)にも起きた歴史があり、私見だが先史時代の日本語でも生じていた可能性が高い。

 しかしたとえば[s]が[z]になるのはよくある話だとして、[z]が[r](またはその近似音)に変わるのがなぜ自然な現象だといえるのだろうか?
 そもそもラテン語の/s/のロータシズムはいつ起きた変化なのだろうか?

 それらを解き明かすには印欧語比較言語学、初期ラテン語資料、古代ローマの文法家の証言、古代の様々な地域言語の碑文、そして音声学や言語類型論などの知識が不可欠である。
 今日はラテン語の歴史を軸にそうしたr音化現象の謎に迫りたい。
 そこにはラテン語の歴史の豊穣な世界に加え、人類言語の普遍性の理解にも繋がる秘密が隠されていたのである。

 今回は主としてラテン語における/s/の/r/音化の資料や音声学的なバックグラウンドを考察し、次回は[s > z]の関連事象、ロータシズムの形態論的影響、/s/以外からのロータシズム、ラテン語と近縁な他のイタリック諸語との比較、世界諸言語との対照分析などの記述を行う。
 関連して次のアニマの梨の名前についての執筆コラムも参照してほしい。
 母音間で/s > r/の変化を経た後のラテン語にも母音間の/s/が現れる理由などもこの記事に記述がある。


2. ラテン語の歴史と/s/の/r/音化

ラテン語の時代区分

 言語の概要についてはアニマのラテン語紹介動画を参照。

 ラテン語は系統的にはギリシャ語や英語などと同様に印欧祖語(PIE)という共通祖先から分岐して生まれた印欧語族の一員であり、その中でも古い時代から長期に渡る資料を持つ言語のひとつである。
 最古の記録は前7~前6世紀頃の短い金石文に遡り、前5世紀にかけて一度は数を減らすが、前4世紀には次第に増加に転じ、前3世紀後半にはギリシャ文化の影響のもとに本格的な文学作品も加わっていく(Weiss 2022, p.114)。

 特に前1~後2世紀頃(古典期, Wallace 2017, pp.322-323)には評価の高い文学が多数生まれ後世にも模範と仰がれた歴史があり、碑文も質量共に豊富であるため、特にこの頃の上流階級の言葉が事実上のスタンダードとして扱われるのである(Weiss 2009, pp.23-24, Weissは前1~後3/4世紀を古典期とする)。

 学術の世界で存続する古代言語という印象から一般には永久不変の存在のようにイメージされがちなところもあるようだが、実際には自然言語の例に漏れず、いくつかの時代差や方言差があったことが知られている。
 時代区分の基準は研究者によって多少異なるが、一例としては次のようなものが知られている(Wallace 2017, pp.322-323)。

(1)初期ラテン語(Very Old Latin, VOL, 前650~前400年頃)
(2)古ラテン語(Old Latin, OL, 前400~前100年頃)
(3)古典ラテン語(Classical Latin, CL, 前100~後200頃)
(4)後期ラテン語(Late Latin, LL, 後200~後600年頃)

 教科書で学ばれるラテン語は(3)の古典ラテン語であり、*sのr音化が発生したのは(2)の古ラテン語時代と推定されている。
 また(1)初期ラテン語(前7/6~前3世紀途中) → (2)古ラテン語(前3世紀途中~前2世紀) → (3)古典ラテン語(前1~後3/4世紀) → (4)後期ラテン語(後3/4~後6/7世紀)などの区分法もある(Weiss 2009, pp.23-24)。
 広義には(1~2)全体が古ラテン語と呼ばれることもあり得る(Warmington 1940, ROL4)。いずれにせよ古ラテン語時代までの資料は量的に珍重される。

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