見出し画像

悟りは必要ない。必要なのは…

こんばんは。
まだnoteをはじめたばかりなのですが、たくさん反応をいただけて嬉しいです。

やはり、心の底から湧き上がる言葉を書き起こすと、それだけでエネルギーがあって、人を引き寄せるのだなと、そんな風に思っています。

さて、タイトルに戻りますが
悟りというものは、生きる上で大変楽に生きていく方法というか、究極的な到達点だと私は思っています。

なので、悟ってしまえばある意味この地球での学びは終わりだと思いますし、だからこそお釈迦様は旅立たれたのかなとも思います。(仏教に詳しいわけではないので表現が適切かわかりませんが、そう表現させてもらいます)

この、地球にいる人たち
人間や地球人と呼ばれている人の目的は
この星で最大限の感情や体験を感じ尽くす事ではないかと思います。

だから泣いたり笑ったり、苦しんだり楽しんだり、様々な出来事があって、そして死んでいく…

みんな幸せと、死に向かって生きている。

私ももちろん幸せになりたいし、幸せになろうと頑張っている。(頑張ってるのもなんか違う気がするけど)

そのすべてが体験であり財産だけれど、あまりにも苦しみすぎたり悲しみに暮れたり、感情に支配されてしまうと、人間本来の生き方からかけ離れてしまうのかなと…

だから悟りや、俯瞰して自分の感情の波を見つめて、感情に影響されすぎずに生きていく方法を教える人が多いのかなと思うのです。

それに、

『健全なる精神は健全なる身体に宿る』

というように、まず整えるべきは体なのではと思うのでした。


つまり、悟りの前に必要なのは健全な体、健康な体ではないかと。

私の精神も、おそらく何かの不足(たとえば抑うつなのでオキシトシンとか)で、今まで身体を疎かにしてしまっていた面もあるだろうなと反省しています。

今って、このnoteの話もそうだと思いますが、スピリチュアル的なものが本当にたくさん溢れていて、精神性や神様、共鳴といった目に見えないものを重視している事も多いと思います。

健康な人はそれを、自分のタイミングで取り入れて適切に行えると思いますが
健康や精神で悩んでいたりすると、縋ってしまったりだとか、極端な行動をとってしまって、逆に体を壊したりメンタルがより不安定になる場合もあるだろうなと思いました。


私もかつてはスピリチュアル寄りというか、スピリチュアル関係なしに神社が好きでよく行くタイプなのですが

抑うつ診断を受けて、メンタルの落ち込みが激しくて家で動けなくなる。

じゃあ動けているときってどんな時?というのを思い出すと、やっぱり体を動かしていたりだとか、なんだかんだ体力があった場面が多いということに気がついたからです。


何かを頑張りたいけど出来ないのって、もしかしてメンタルの不調もあるけど単純に体力がないだけでは、、、と

なので、ちょっと毎日ウォーキングを始めようかと思ってます。

そちらの成果はまた別のnoteでご報告できたら嬉しいです。


悟りより健康。

そんな事を思った1日でした。

サポートしていただけたら、やりたい事を実行するために使わせていただきます。もしよろしければ是非、お願いいたします。