MagicとMagick 2
さて。
1つ目の記事を書いてから数日経過し、多少「何を言いたかったんだっけ…?」という感覚がありつつも(笑)、思い出しながらアレコレと書いていきたいと思います。
しかしながら、
ここからは読み手によっては「非難めいている」と感じられる表現や箇所、また全く面白みの感じられない現実的な内容になっていくことが予想されることを先に述べておきます。
その大半は私個人の主観に基づく話であり、それでも極力一方的な見方に偏らないことを心がけて参りますので、お読みいただく方にもラウンドに捉えていただけたらなと思います。
それでは、いざ。
リアルとファンタジー
一口に「魔法」と聞くと、どのようなイメージでしょうか?
それはどこか、我々の多くが”現実”と認識する世界からは一歩外れた、「空想」という別世界の代物であるような感覚が強いのではないでしょうか。
恐らく、何か特定の思想・信仰にーーあくまで本人の感覚としてはーー属さない方が一般的な現代の日本人の感覚としては「神」のようなワードも同じように感じられるのではないでしょうか。
ここでまた、とある映画のセリフを引用します。
「何が現実だ?
“現実”をどう定義する?
もし君が言っているのが、感じるとか、匂いがするとか、味がするとか、見えるとかなら、現実は脳が解釈するただの電気信号だ。」
日常生活において、一瞬立ち止まって考えたことがありますか?
きっと、子供の頃にはその様な思考を巡らせる経験をした人も少なくないでしょう。
その表題は、
「自分が今体験しているこれは”夢”なのか、”現実”なのか」
です。
よくある「ほっぺをつねって痛くなかったら夢だ」という検証行為。
確かに、夢の中で転んだり、高所から落下するような体験をしても、反射的に身体はビクッと動いたりするものの、実際に痛みを感じたり負傷するようなことはありません。
しかし、この痛覚などの感覚すら、外部から脳に電気刺激を与えられ、感覚も視覚も「本当に負傷した」と錯覚させられたら…
我々は”夢”あるいは”現実”を、どのようにしたら識別できるのでしょう?
私がここでしたいのはSFチックな怖い話ではありません。
大人になり、ある程度この世の”概念”が身につき、「当たり前」が定着すると、その「当たり前」について疑いを持つこともあまりなくなります。
または人生において尊い、あるいは貴重な体験をし「今ある日常、当たり前と思っていたことは当たり前ではない」という、「別の当たり前」に置き換わった人もいるかもしれませんが、どちらも同じ認識の領域の中にいます。
長くまどろっこしい話しになってしまったかもしれませんが、掴んで頂きたいポイントは、
「リアルだと認識する日常の中にも多くのファンタジーがある」
という事実です。
これは自身をよく観察することで確かめることができます。
「占いなんて」「魔術なんて」「神様なんて」…と鼻で笑っている人も、日常的に自身の思考が作り出す「これが(自分にとっての)現実」というファンタジーの中に生きていたりするんです。
みんな大好き、ファンタジー。
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