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[セルゲイ・ロズニツァ]アウステルリッツAUSTERLITZ(2016)

ひどく懐かしい(けれどもう遠い過去の話)

  ひどく懐かしい。懐かしい。さまざまな言語であふれ、自分とは異なるような顔立ちの人々に囲まれて、ひとりで立ち尽くす感覚。大勢の人の波に乗りながら、ある観光をする感覚。異国の寂しさ、対象物との距離感、観光の非日常性…この作品は、私のまだ短い人生のなかで経験してきた、他国での観光体験をありありと呼び起こす。

  なぜなら、カメラが内側にあるからだ。俯瞰するような視点ではない。カメラは人々の内側にある。建物の内側にある。カメラは私の視点だ。観光地のなかで立ち尽くし、人混みに流される、私だった。声の他に、風や虫の音、飛行機の音、誰かの着信音、そしてシャッター音など、さまざまな音であふれる。私=カメラの周りを取り囲む音は、雑音でありながらも、ひとつ足りとも無駄なものはない。この音で囲まれる感じは、まさに経験したものと近い。動かないカメラのように、ここまで立ち尽くすことは実際には難しいけれど、でもたとえ同じことをしていなくとも、同じ感覚は味わったことがある。膨大な歴史を持ち、理解しきれないところから逃げようとしても、あっというまにいまを生きる人々に囲まれてしまう、息の詰まる観光地の経験…私はそれがとても懐かしい。

  けれど、もうすでにここに映ること自体が過去になってしまったことが、さらに懐かしさを加速させる。もう同じような景色はしばらく戻ってこないだろう。戻ったとしても、人々は確実に変わっている。コロナという事象は、人間を新たなフェーズに移行させてしまった。コロナ前の、ショアー後の、約70年ほどの時代、テクノロジーの発展とともに観光も広がったあの時代の、あるひと時を切り取った今作品は、それだけでも貴重だ。少なくとも、2020年を迎えた現代にとっては。

君は、ザクセンハウゼンで起きたことを理解したか?

何か感じたか?それともただ、お腹が空いたのか?

  観光とは何だろう。なかなか動かぬカメラに、私はじっと問い続ける。とめどなく流れていく人々は、写真を撮り、会話をし、水を飲み、ツアーコンダクターの話を聞く。誰一人同じ人はいないのだけど、誰もが同じような行動をしては、ザクセンハウゼン収容所をたどる。不思議なことに、この作品の姿勢は決してツーリズム批判ではないと思う。モノクロームの人々を捉える視点に、あえてもたらされるアイロニーは存在しない。それこそ、カメラもツーリストの一人だ、まさに私だ。だから、批判するも何もない。自分が内部にいる限りは。

  だからこそ、私は改めて観光とは何だろう、ダークツーリズムとは何だろうと問う。悪いことではないけれど、良いこととも言い切れないのはなぜだろう。写真に収める人々が滑稽に見えてしまうから?それとも、起こった事実があまりにも大きすぎるから?問いつつも、それでも私(たち)は観光を止められない。その地を訪れ、通過することをやめられない。それを写真に残すことをやめられない。

  ダークツーリズムはただの観光ではない。負の感情をもたらすものであり、決して心地よいものではないと説明されている。だけど、ここに捉えられた人々は、表面上ではとてもリラックスしているように見えた。機械的にツアーガイドにしたがって動く人々のなかにも、遅れて歩いたり、食べながら歩いたり、ちゃんと話を聞かなかったりと、それは本当に見たことのあるような景色だ。ダークツーリズムだからといって、皆が喪服のような姿で顔を一文字にして、真剣に見つめ続けなければいけないわけではない。そんなルールはどこにもない。だからこそ、ダークツーリズムというのは非常に面白いのだ。(思考する対象としての話である)

  何度も言うが、この作品は観光を批判しているわけではないと思う。捉えているのは、ある一つの事象である。そして、少なくとも否定的というよりは、肯定的…いや、哲学的に創っているように思う。人々の姿から、顔から、ある問いを投げかける。観光とは何か?君は、ザクセンハウゼンで起きたことを理解したか?何か感じたか?それともただ、お腹が空いたのか?と。

ダークツーリズムの可能性 

過去との断絶の上に立ち続けるということ

  収容所を去っていく人々は、せわしなく会話をし、写真を撮って、時に笑顔を見せながら、とめどなく流れていく。その姿は決して、1940年代の姿とは重なることはない。この作品、いや、ダークツーリズムを通してわかることは「私たちはその地で起きたことを知ることはできない」ということだ。もちろん、ツアーコンダクターや電話機みたいな機械によって、ある程度の知識を得ることはできる。そして知覚や触覚を通して、残った物を見ることができる。でも、私はそれをすればするほど、過去が遠のいていく感覚に陥ってしまう。完全には知ることができないと、思い知らされるのだ。それはこの映画を通しても、自分が実際に行っても、同じことだろう。

  私がこの映画からわかるのは、そのような人々と過去の断絶性だ。人々の行動を非難するのではなく、現実的な事象として、ここに映った人々と、収容された人々は絶対に重なることはない。この非対称性が、映像を通してより強く伝わる。だからこそ、私はここにダークツーリズムの前向きな姿勢を感じたい。この非対称性を、しっかりとわかること。私たちは過去と断絶した世に生きながらも、歴史の断層の上に立つということ。それを、負の感情を通してありありと知ることになる。

顔に涙する

  話は観光、そしてダークツーリズムになってしまったので、最後に涙が出てしまったシーンについて書きたい。カメラは人々を捉えるだけで、ザクセンハウゼンの姿はほとんど捉えられない。そんな中で、彼らの視線の先を想像する。そして、そのもどかしい気持ちを抱えながら、私は彼らの顔を見るのだ。大半が引いたショットだったのに対し、もっとも残酷な場所(処刑場)では、唯一カメラはアップになり、人々の顔をはっきりと映し出す。視線の先が何だか視覚的には示されないものの、ツアーコンダクターの説明によって、どんな場所だかはわかった上で、それを見つめる彼らを、私は見つめることになる。その、彼らの顔…!写真を撮ることはしない。(あえてそういう人を選んでいるのだろう…) 俯きながら見ては、時が止まったかのように動かない、しばらくすると我にかえり、フレームアウトしていく。このシーンが、それまでの人々を描く姿勢とは全く異なり、非常に恣意的でドラマティックなものだった。私はそれに今までの緊張感のような、ノスタルジックな何かから解放されて、ふいに泣いてしまったのだ。彼らの視線の先はわからないが、私は彼らの顔に涙した。何を見てるかわからぬ、彼らの顔に。

作品情報:セルゲイ・ロズニツァ監督作品「アウステルリッツ」
2016年/ドイツ/ドイツ語、英語、スペイン語/モノクロ/94分



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