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「歴史が始まる前 人はケダモノだった」 THE BLUE HEART とSPITZをつなぐ”けもの道”

「歴史が始まる前 人はケダモノだった」


THE BLUE HEARTの『世界の真ん中』を聞くたびに、この歌詞が気になる。もちろん、その前のフレーズ「生きるということに命をかけてみたい」の方が、詩的で、力強く、心に刻まれるはずだろう。なのに私はどうしてか、その後のフレーズ、特に「ケダモノ」が気になるのだ。

なぜ、私が「ケダモノ」に反応してしまうのか、それは、紛れもなく、別のバンドの影響だ。ブルーハーツに影響を受け、ブルーハーツとは全く別の方向へ流れたバンド、スピッツだ。 彼らは「ケダモノ」という表現ではないものの、「獣」「けもの」という言葉を好んで使う。『けもの道』をはじめ、『歩き出せ、クローバー』『運命の人』『夢じゃない』『稲穂』という曲に、「獣」「ケモノ」「けもの」というフレーズが使われている。

スピッツが考える「ケダモノ」

「けもの道」と「人間の道」


スピッツの歌詞をまじめに読み解く行為は、とても苦手で意味がないと思っている。だから、今回もそんなことはしない。ただ、彼らがどのようなテンションで「けもの」を使っているか、だけ、見ていこうと思う。そうすれば「ケダモノ」についてもわかるはずだ。

「あきらめないで それは未来へ かすかに残るけもの道」

『けもの道』のサビ、このフレーズは、「けもの道」が消えかかっていることと、未来へと続いているものであるということを提示している。次に続くのは、「すべての意味を 作り始める あまりに青い空の下」というフレーズである。

この2つのフレーズからわかることは、「けもの道」にはまだ意味がなく、道を行く過程で意味を作り出していくものであるということだ。その道は、青い空の下、未来まで続いている。しかし、かすかにしか残っていない。消えかかっているからこそ、最後には「あきらめないで」「怖がらないで」(二番)「フレーフレーフレー」というふうに、励ますフレーズが重ねられている。

ここまで整理すると「けもの道」は、従来の道=「人間の道」とは異なる。「人間の道」で大切にされてきた「意味」が通用せず、新たなものを作っていくことができる道であるということがわかるだろう。

「見えない場所で作られた波」から逃れて

この「消えかけた獣の道」という考えは、『けもの道』より過去の作品である『歩き出せ、クローバー』にも、そのままの歌詞で表現されている。

この曲は全体を通して”君”に対する愛情を歌っている。しかし、二番のBメロのみ異色の歌詞で構成されている。

「だんだん解ってきたのさ 見えない場所で作られた 波に削り取られていく命が」

この意味真な歌詞は、『歩き出せ、クローバー』全体を貫く、”君”に対する愛情や希望と切り離されているようにも感じる。このフレーズにだけ、シリアスな響きがあるのだ。「見えない場所で作られた波」とは一体何だろうか。この波は、命を削り取っていくほどの、威力の大きいものであることだけは分かる。このフレーズは、次に「混沌の色に憧れ 完全に違う形で 消えかけた獣の道を 歩いていく」と続いていく。

整理すると、命が危機にさらされているからこそ、「獣の道」=「けもの道」を行くという流れが見えてくる。つまり、命が脅かされているからこそ「混沌の色」である「完全に違う形」を望んでいる。その形とは、「消えかけた獣の道」であるのだ。 この「獣の道」=「けもの道」は前述したように「人間の道」とは全く異なり、従来のルールや規範が通用することがない。全く新しい価値や意味があり、新しく作っていく道であるのだ。

このことを踏まえると、『歩き出せ、クローバー』のシリアスな響きの正体である「見えない場所で作られた波」の意味がわかってくるような気がする。 「見えない場所で作られた波」がある世界は、今ここにいる従来の「人間の道」の上である。

「人間の道」において「見えない場所で作られた」ことやものは多くある。ありすぎるくらいある。身近な購入品や食品から始まり、法律やルール、国家という大きな存在まで、ありとあらゆるものが「見えない場所で作られ」ている。そのようなモノやコトが、大きな波となって、命を削っていく。 とりわけイメージしやすいのは、やはり法律や規範という、目に見えないけど確かにある、「見えない場所で作られた」ものだろう。それは、万人のためにあるルールかもしれない。それは、みんながやっているから守るべきルールかもしれない。だけれども、どんな場所でどうやって作られたのかを知っている人は少ない。納得して生きている人はもっと少ない。だけれども、法律や規範は守らなければいけないとみんな言う。もっと小さな範囲で言うならば、性別に基づく要請(女は〜、男は〜)とか、年齢に基づく要請(大学を出たら就職をしろ、とか)は、どこでどうやって、誰が決めたのだろうか。どうして守らなけれないけないのだろうか。

「人間の道」の掟は複雑で強固で、ちっぽけな命はすぐに削れてしまうのだ。それには全員が気付けるわけでもない。この曲においては「だんだん解ってきた」と告白されている。取り返しのつかないところまで削られてしまうことだってあるのだ。

そんな「見えない場所で作られた波」から、規範やルールから逃れた先にあるのが、「獣の道」=「けもの道」なのだ。消えかかっているのは当たり前だ。「人間の道」を離れる人は少ないだろうし、保護もされていないだろう。だけれども、この道では意味を新しく作っていくことができる。「人間の道」の「すべて」の意味を作り変え、「完全に違う形」で、「獣の道」はあるのだ。おそらくそれは、とても大変なことだ。消えかかっていることに加え、仲間は少なそうだ。だからこそ、彼らは歌う、「あきらめないで」「怖がらないで」「フレーフレーフレー」と、励ますのだ。命が削られなくなってしまう前に、波をよけて「人間の道」から脱出した人を励ます。「獣の道」=「けもの道」を行く人を励ます。

人間を捨て、「ケモノになる」ことの批評性


ここまで考えると、スピッツが好んで使う「けもの」「獣」「ケモノ」には、人間社会に対する批評性があることがわかるだろう。「人間の道」にあるさまざまな決まりから逃れることは、人間を捨て「ケモノ」になることでもある。

多くの人が論じているように、スピッツは柔らかなメロディとは裏腹な、痛烈なパンク精神を持っている。(元々はパンクバンドとして活動していたという背景も持つ。)パンクは音楽ジャンルとしてだけではなく、アナーキズム、反政府主義といった思想と一緒に語られることがある。よって、スピッツが扱う「けもの」「獣」「ケモノ」は、現状のルールや規範を否定し、自分達で価値を作り上げていくという、DIY精神すら汲み取ることが可能となる。現状のルールや規範を無視し、改善することをしないまま逃げ出し、壊し、そして新たな道を生き、新たな世界を作り、新たなルールを作る、神様(創造主)になることでもある。

ここまで、スピッツにおける批評性を論じてきた。ポイントは「人間の道」(人間社会)における規範から逃げた先に「けもの道」があるということ、「けもの道」では新しい意味を生み出すことが可能であるということだ。特に前者が重要である。

『世界の真ん中』の「ケダモノ」へ


回り道をして、やっと『世界の真ん中』における「ケダモノ」を論じることができる。改めて「歴史が始まる前 人はケダモノだった」という、『世界の真ん中』の歌詞を見ると、解ってくるだろうか。

「歴史」とは「人間の道」の「歴史」である。文明が生まれ、規範が生まれた人間社会の「歴史」である。そのような「歴史」が開始される前、人は「ケダモノ」=「けもの」「獣」「ケモノ」であったのだと言う。スピッツと合わせてみるのならば、「人間の道」の前は「けもの道」であったということだ。

このことから、「けもの道」が消えかかっている理由もわかるだろう。はるか昔「歴史が始まる前」に、「けもの道」があった。それは、人間の「歴史」によって、塗り替えられそうになっている。だから、今にも消えかかり、見えなくなろうとしているのだ。

ブルーハーツが『世界の真ん中』で歌う「生きるということに 命をかけてみたい」というフレーズは、もしかしたら「けもの道」で「生きるということ」なのかもしれない。「歴史が始まる前」から続いている、今にも消えそうな「けもの道」の上に立ち、新しく意味や価値を作りながら、進んでいく。そんな「生」に「命をかけてみたい」。その「命」は、もう「波」に削られることはないだろう。

人間社会、「人間の道」に、『NO NO NO』と叫んだ2つのバンドを、私は今日も聴く。今はまだ「人間の道」で波に削られる命だけど、かつては「ケダモノ」であり、いつの日かも「ケダモノ」に戻れるという期待を込めて。


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